スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

suttanipata

info@suttanipata.com

2017年

スッタニパータ 迅速928の解説

928 修行者は、非難されても、くよくよしてはならない。称讃されても、高ぶってはならない。貪欲(とんよく)と慳(ものおし)みと怒りと悪口とを除き去れ。

 

 

修行者は、非難されても、意気消沈してはならない。称讃されても、高ぶってはならない。この「高ぶり」⇔「消沈」と言う思考の運動は人間的思考である。この運動が起こると、称賛を求めて欲が起こり、称賛を継続したいがためにものおしみが起こる。非難されることにより、悪口が起こる。これは、全て人間的思考の運動によるものだと知れ。それを知って修行者は、貪欲(とんよく)と慳(ものおし)みと怒りと悪口とを除き去り、遂には、彼の岸へ到達するのである。

スッタニパータ 迅速927の解説

927 わが徒は、アタルヴァ・ヴェーダの呪法(じゅほう)と夢占(ゆめうらない)いと相(そう)の占いと星占いとを行ってはならない。鳥獣の声を占ったり、懐妊術(かいにんじゅつ)や医術を行ったりしてはならぬ。

 

 

わが徒は、アタルヴァ・ヴェーダの呪法(じゅほう)と夢占(ゆめうらない)いと相(そう)の占いと星占いによって心が運動してはならない。人間は、吉と聞けば、「安心」し凶と聞けば「不安」になるのである。そのように「安心」⇔「不安」の運動をする。この世は、無常であるので、吉と聞いてその状態に執着をしても、それは運動をし必ず逆の凶が目の前に現れるのである。逆もしかりである。鳥獣の声を占ったり、懐妊術(かいにんじゅつ)や医術を聞いても心が運動してはならぬ。全ての人間的思考の運動を制してかの聖者は、煩悩の荒波を渡り終えたのである。

 

 

スッタニパータ 迅速926の解説

926 多く眠ってはならぬ。熱心に努め、目ざめているべきである。ものぐさ(面倒くさがること)と偽(いつわり)りと談笑と遊戯と淫欲の交わりと装飾とを捨てよ。

 

 

 

修行者は、必要以上に眠らぬように気をつけ、自らの心に集中し熱心に、人間的思考の運動を制することに努め、人間的思考の運動を止めることをめんどくさがることなく、止めていないのに止めているようにいつわるることなく、人間的思考の運動を増長する談笑をせず、遊技をひかえ、快を求めて淫欲に走ることなく、装飾による心の運動を制せよ。人間的思考の運動による快を得れば、それは運動をするので、必ず逆のものが目の前に現れる。すなわちそれは苦である。それを知って聖者は、全ての人間的思考の運動を制して彼の岸へ至るのである。

 

 

 

スッタニパータ 迅速925の解説

925 こころを安定させよ。うろついてはならない。後で後悔するようなことをやめよ。怠(なま)けてはならぬ。そうして修行者は閑静(かんせい)な座所・臥所(がしょ)(寝る場所)に住まうべきである。

 

 

 

修行者は、人間的思考の運動を制して心を安定させよ。両極端に偏ってはならない。人間的思考の運動に陥って、あとで後悔するようなことをやめよ。人間的思考の運動を止める修行を怠けてはならぬ。そして、人間的思考の運動による荒波を回避して中道を保ち閑静な状態に住まうべきである。

スッタニパータ 迅速924の解説

924 食物や飲料や硬(かた)い食べものや衣服を得ても、貯蔵してはならない。またそれらが得られないからとて心配してはならない。

 

 

 

人間は、何かを手に入れては「安心」し、得られないと「不安」になる。このような「安心」⇔「不安」と言う人間的思考の運動を繰り返す。この世は無常であるから、何かを手に入れても、必ずそれは失われる。逆に手に入らなくとも変化をして行き状況は変わる。人間的思考の運動を繰り返すと、食物や飲料や硬(かた)い食べものや衣服を得ると「安心」し心は動揺する。またそれらが得られないと逆の「不安」へと心が両極端に運動し煩悩の荒波へと変化する。聖者はそれを知って、この「安心」⇔「不安」という運動を離れたところに住し、人間的思考の運動を止め遂には、安穏へと至るのである。

 

スッタニパータ 迅速923の解説

923 苦痛を感じることがあっても、修行者は決して悲観してはならない。生存を貪り求めてはならない。恐ろしいものに出会っても、慄(ふる)えてはならない。

 

 

 

肌で感じることを「快⇔不快」に分けることなく、苦痛を感じることがあっても、修行者は決して悲観してはならない。現在の状態に固執すること。それは、この無常の世では、必ず失われ苦を生じるのであるから、生存を貪り求めてはならない。恐ろしいものに出会っても、「不安」⇔「安心」と言う人間的思考の運動をすることなく、慄(ふる)えてはならない。

スッタニパータ 迅速922の解説

921 〔質問者いわく〕、「眼を開いた人は、みずから体験したことがら、危難の克服、を説いてくださいました。ねがわくは、正しい道を説いてください。戒律規定や、精神安定の法をも説いてください。」

 

 

922 〔師いわく〕、「眼で視ることを貪(むさぼ)ってはならない。卑俗な話から耳を遠ざけよ。味に耽溺(たんでき)してはならない。世間における何ものをも、わがものであるとみなして固執してはならない。

 

 

人間には、人間的思考の運動に至る様々な感覚的感受がある。すなわち眼で視ることを「快⇔不快」に分け、貪(むさぼ)ってはならない。耳から入る情報を「快⇔不快」に分けることなく卑俗な話から耳を遠ざけよ。舌で感じる味を「快⇔不快」に分けることなく、味に耽溺(たんでき)してはならない。そして分けたものに執着をして世間における何ものをも、わがものであるとみなして固執してはならない。この世は変化する世界であるから、常住を願うこと、すなわち苦である。

スッタニパータ 迅速920の解説

920 海洋の奥深いところでは波が起らないで、静止しているように、静止して不動であれ。修行者は何ものについても欲念をもり上らせてはならない。

 

 

海洋の奥深いところでは波が起らないで、静止しているように、人間的思考の運動を静止して不動であれ。修行者は何ものについても両極端に分けることがないようによく気をつけ、欲念をもり上らせてはならない。

 

スッタニパータ 迅速919の解説

919 修行者は心のうちが平安となれ。外に静穏を求めてはならない。内的に平安となった人には取り上げられるものは存在しない。どうして捨てられるものがあろうか。

 

 

 

修行者は、心のうちにある人間的思考の運動を止めて平安となるのだ。外に静穏を求めて「安心」⇔「不安」の運動をしてはならない。外に求める人間には、「安心」と言う失われる状態に執着をするが、この世は変化する世界であるので、その状態は儚くも崩れ去る。逆に内的に平安となった人には取り上げられるものは存在しない。人間的思考を制して執するものがなく取るものがない修行者にどうして捨てられるものがあろうか。

スッタニパータ 迅速918の解説

918 これ(慢心)によって『自分は勝れている』と想ってはならない。『自分は劣っている』とか、また『自分は等しい』とか想ってはならない。いろいろの質問を受けても、自己を妄想(もうそう)せずにおれ。

 

 

 

慢心によって『自分は勝れている』と思うことそれは人間的思考である。そう想っては喜ぶのである。また、劣っていると思えば消沈し、喜⇔消沈の運動をする。また、『自分は等しい』とか想って「安心」してはならない。この運動も「安心」⇔「不安」という人間的思考の運動だからである。実に人間は、この人間的思考の運動を繰り返し、煩悩の荒波を創っていくのである。いろいろの質問を受けても、自己を妄想(もうそう)せずに中道を保ち安穏に至るのだ。