スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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2017年

スッタニパータ 武器を執ること938の解説

938 (生きとし生けるものは)終極においては違逆に会うのを見て、わたくしは不快になった。またわたくしはその(生けるものどもの)心の中に見がたき煩悩の矢が潜(ひそ)んでいるのを見た。

 

 

 

生きとし生けるものは終極においては違逆に会う。すなわち逆さづりにあったような苦しみに襲われるわけだが、人間的思考によって、2つに分け快を追い求めて作り上げてきたものが、終極において全て失われるわけである。それは、究極の苦しみと言えよう。また、わたくしはその生けるものどもの心の中に人間的思考の運動で分けたものを欲する見がたき煩悩の矢が潜(ひそ)んでいるのを見た。その煩悩の矢は自らに向いているのである。これを見ても、修行者は、自らの人間的思考の運動によく気をつけ、その運動を制止して、安穏を観るのである。

スッタニパータ 武器を執ること937の解説

937 世界はどこも堅実(けんじつ)ではない。どの方角でもすべて動揺している。わたくしは自分のよるべき住所を求めていたのであるが、すでに(死や苦しみなどに)とりつかれていないところを見つけなかった。

 

 

世界はどこを見ても、人間的思考の運動に満ちあふれている。そして、その運動にもとづいて執着をして動揺しているのである。わたくしは自分のよるべき住所を求めていたのであるが、すでに死や苦しみなどにとりつかれていないところを見つけなかった。人は、死してなお、執着をやむことなく、その念がそれぞれの土地に付着しているのである。人間的思考によって分けて、自らが快、すなわち欲しい思ったものを人は追い求めて執着をする。しかしながら、この世は無常であり変化する世の中であるから、それは苦なのである。死してなおもわからぬ人間がいかに多いことか。それを知って修行者は、自らの人間的思考の運動に打ち克ち、自らを制して、遂には彼の岸へ到達するのである。

スッタニパータ 武器を執ること936の解説

936 水の少ないところにいる魚のように、人々が慄(ふる)えているのを見て、また人々が相互に抗争しているのを見て、わたくしに恐怖が起った。

 

 

抗争に関わる人間的思考の運動すなわち戦争⇔平和である。人間的思考の求める平和は、運動をするので戦争⇔平和を繰り返す。この人間的思考の平和は、平和らしきものであって、失われる変化のうちにある。運動をするので必ず反対のもの戦争へと変化していく。水の少ないところにいる魚のように、変化する運動のうちにある人々が慄(ふる)えているのを見て、また人々が相互に抗争し、運動しているのを見て、わたくしに恐怖が起った。人は、自らの一方的な見方による平和を求めて戦争を起こす。その結果による平和は、他の犠牲によって成り立っているのである。他の犠牲によって成り立つ平和と呼ばれるものは、一時的なものであって、変化するものだと知れ。修行者は、自らの視点に立った一方的な平和らしきものを貪り求めることなく、戦争⇔平和という人間的思考を制し中道を保って世の中を遍歴せよ。

スッタニパータ 武器を執ること935の解説

935 殺そうと争闘する人々を見よ。武器を執(と)って打とうとしたことから恐怖が生じたのである。わたくしがぞっとしてそれを厭(いと)い離れたその衝撃を宣(の)べよう。

 

 

人間的思考の運動が創り出す平和は、戦争⇔平和の運動である。自らの偏った正義(平和)の名の下に武器を取るのである。それは、運動をするので、あるときは、一見その運動が創り出す平和のように見えるが、運動をするので、必ず逆のものすなわち戦争になるのである。殺そうと争闘する人々を見よ。武器を執(と)って打とうとしたことから恐怖が生じたのである。これも打ったり、打たれたりの運動であるので、自らも打たれる可能性に恐怖するのだ。それを知って修行者は、争闘に近づいてはならない。一時的に勝とうとも運動をすることを知れ。賢明な修行者はその人間的思考の運動を離れたところに座し安穏を観たのである。

スッタニパータ 迅速934の解説

934 かれは、みずから勝ち、他にうち勝たれることがない。他人から伝え聞いたのではなくて、みずから証する理法を見た。それ故に、かの師(ブッダ)の教えに従って、怠ることなく、つねに礼拝して、従い学べ。」ーこのように師(ブッダ)はいわれた。

 

 

かれは、自らの人間的思考の運動に打ち勝ち、その反応を制したために、他に打ち勝たれることはない。他人から伝え聞いたのではなく、自らの人間的思考の運動を制したことで、かれは理法を観た。それ故にこの両極端の運動を制するブッダの教えに従って、常に自らの人間的思考による運動に気をつけ日々精進せよ。このようにブッダは言われた。

 

 

 

スッタニパータ 迅速933の解説

933 修行者はこの道理を知って、よく弁(わきま)えて、つねに気をつけて学べ。諸々の煩悩(ぼんのう)の消滅した状態が「安らぎ」であると知って、ゴータマ(ブッダ)の教えにおいて怠ってはならない。

 

 

修行者はこの道理を知って、よく弁(わきま)えて、つねに人間的思考の運動が起きぬように気をつけて学べ。諸々の人間的思考の運動による煩悩(ぼんのう)の消滅した状態が「安らぎ」であると知って、ゴータマ(ブッダ)の教えにおいて自らの人間的思考の運動に気をつけることを怠ってはならない。

スッタニパータ 迅速932の解説

932 諸々の出家(しゅっけ)修行者やいろいろ言い立てる世俗人に辱(はずかし)められ、その(不快な)ことばを多く聞いても、あらあらしいことばを以て答えてはならない。立派な人々は敵対的な返答をしないからである。

 

 

諸々の出家(しゅっけ)修行者やいろいろ言い立てる世俗人に辱(はずかし)められ、その不快なことばを多く聞いても、あらあらしいことばを以て答えてはならない。聖者は、人々のことばを、快⇔不快と言った反応の仕方をしない。そのような、人間的思考の運動による反応の仕方を乗り越えたもの、かれこそは、聖者と呼ばれる人なのである。

スッタニパータ 迅速931の解説

931 虚言をなすことなかれ。知りながら詐(いつわ)りをしないようにせよ。また生活に関しても、知識に関しても、戒律や道徳に関しても、自分が他人よりもすぐれていると想ってはならない。

 

 

全てにおいて人間的思考の運動を制止するのだ。この運動が起こり快、不快が生じたときに人は、それを欲し、手に入れるために虚言を言う。人間的思考の運動を制止して虚言をなすことなかれ。知りながら詐(いつわ)りをしないようにせよ。また生活に関しても、知識に関しても、戒律や道徳に関しても、自分が他人よりもすぐれていると想ってはならない。人は、勝れていると思えば「安心」する。これは、「安心」⇔「不安」の人間的思考の運動であると知れ。全てのこの二元の運動を制したとき、修行者は、彼の岸へ到達するのである。

 

スッタニパータ 迅速930の解説

930 また修行者は高慢であってはならない。また(自分の利益を得るために)遠回しに策したことばを語ってはならない。傲慢(ごうまん)であってはならない。不和をもたらす言辞を語ってはならない。

 

 

 

また修行者は高慢であってはならない。高慢が出るとき、そこには人間的思考の運動がある。「慢心」⇔「失意」である。また自分の利益を得るために)遠回しに策したことばを語ってはならない。これも人間的思考の運動による。快を得るためにの行動である。この世は無常であり失われる状態であることを知って傲慢(ごうまん)であってはならない。人間的思考の運動である「快」⇔「不快」に反応して、不和をもたらす言辞を語ってはならない。修行者は、全ての人間的思考の運動を制して、煩悩の荒波を渡り終わるのだ。

スッタニパータ 迅速929の解説

929 修行者は、売買に従事してはならない。決して誹謗(ひぼう)をしてはならない。また村の人々と親しく交わってはならない。利益を求めて人々に話しかけてはならない。

 

 

 

修行者は、売買に従事してはならない。すなわち売れれば喜び、売れなければ悲しむ。この二元の運動を制止せよ。人間的思考の運動を制止して上手くいかなくとも決して誹謗(ひぼう)をしてはならない。村の人々と親しく交わってはならない。親しくすると言うことは、同時に敵対するものを作るのである。これもまた、親しい⇔敵対の運動である。利益を求めて人々に話しかけてはならない。人が何かを求めるとき、そこには人間的思考の運動がある、すなわち得られれば喜び、得られなければ悲しむ。「喜び」⇔「悲しみ」の運動である。この全ての苦のものである二元の運動を制止して修行者よ彼の岸へ到達するのだ。