スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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2017年

スッタニパータ 学生トーデイヤの質問1091の解説

1090 「かれは願いのない人なのでしょうか?あるいは何かを希望しているのでしょうか?かれは智慧があるのでしょうか?あるいは智慧を得ようとはからいをする人なのでしょうか?シャカ族の方よ。かれが聖者であることをわたくしが知り得るように、そのことをわたくしに説明してください。あまねく見る方(かた)よ。」

 

 

1091 〔師いわく〕、「かれは願いのない人である。かれはなにものをも希望していない。かれは智慧のある人であるが、しかし智慧を得ようとはからいをする人ではない。トーデイヤよ。聖者はこのような人であると知れ。かれは何ものをも所有せず、欲望の生存に執著していない。」

 

 

かれは、人間的思考の運動による願いのない人である。かれはなにものをも分別しないので、両極端を希望していない。かれは智慧のある人であるが、しかし智慧を得ようと人間的思考の運動をする人ではない。トーデイヤよ。聖者はこのような人であると知れ。かれは理を知り何ものをも所有せず、欲望の生存に執著していない。すなわち人間的思考の運動がとめられない人間は、この無常である苦の世界へ自らの想いによって生まれてくるのである。

スッタニパータ 学生トーデイヤの質問1089の解説

1088 トーデイヤさんがたずねた、「諸々の欲望のとどまることなく、もはや妄執が存在せず、諸々の疑惑(ぎわく)を超えた人、ーかれはどのような解脱(げだつ)をもとめたらよろしいのですか?」

 

 

1089 師(ブッダ)は答えた、「トーデイヤよ。諸々の欲望のとどまることなく、もはや妄執が存在せず、諸々の疑惑を超えた人、ーかれには別に解脱は存在しない。」

 

 

 

諸々の人間的思考の運動を制して欲望がとどまることもなく、完全に運動を制止して、もはや妄執が存在せず、中道を極めて五智に繋がり、諸々の疑惑を超えた人、ーかれには更に目指す解脱(修行)は存在しない。この人間的思考の運動を完全に制止して、五智の思考に変換し、智慧を獲得すなわち智慧と繋がることが、最終修行到達点であると。

スッタニパータ 学生ヘーマカの質問1087の解説

1087 このことをよく知って、よく気をつけ、現世において全く煩(わずら)いを離れた人々は、常に安らぎに帰(き)している。世間の執著を乗り超えているのである」と。

 

 

この、ものごとを両極端に分け分別する運動が苦であることをよく知って、自らの反応の仕方によく気をつけ、現世において全く両極端の運動を離れた人々は、常に安らぎに帰(き)している。世間における執著の誘惑を乗り超えているのであると。

スッタニパータ 学生ヘーマカの質問1086の解説

1084 ヘーマカさんがたずねた、「かつてゴーダマ(ブッダ)の教えよりも以前に昔の人々が『以前にはこうだった』『未来にはこうなるであろう』といってわたくしに説き明かしたことは、すべて伝え聞くにすぎません。それはすべて思索の紛糾(ふんきゅう)を増すのみ。わたくしはかれらの説を喜びませんでした。

 

 

1085 聖者さま。あなたは、妄執を滅しつくす法をわたくしにお説きください。それを知って、よく気をつけて行い、世間の執著を乗り超えましょう。」

 

 

1086 (ブッダが答えた)、「ヘーマカよ。この世において見たり聞いたり考えたり識別した快美な事物に対する欲望や貪(むさぼ)りを除き去ることが、不滅へのニルヴァーナの境地である。

 

 

この世において見たり聞いたり考えたり、すなわち、目から入る情報、耳から入る情報、心で感じる情報を人間的思考の運動(快⇔不快)によって識別した快美な事物に対する欲望や貪(むさぼ)りを人間的思考の運動を制することによって除き去ることが、不滅へのニルヴァーナの境地である。

 

スッタニパータ 学生ナンダの質問1082の解説

1081 ナンダさんがいった、「およそこれらの〈道の人〉・バラモンたちは、見解によって、また伝承の学問によっても清浄になれると言います。戒律や誓いを守ることによっても清浄になれると言います。(そのほか)種々のしかたで清浄になれるとも言います。聖者さま。もしもあなたが『かれらは未(いま)だ煩悩の激流を乗り超えていない』と言われるのでしたら、では神々と人間の世界のうちで生と老衰を乗り超えた人は誰なのですか?親愛なる先生!あなたにおたずねします。それをわたくしに説いてください。」

 

 

 

1082 師(ブッダ)は答えた、「ナンダよ。わたしは『すべての道の人・バラモンたちが生と老衰とに覆(おお)われていると、説くのではない。この世において見解や伝承の学問や想定や戒律や誓いをすっかり捨て、また種々のしかたをもすっかり捨てて、妄執をよく究(きわ)め明(あか)かして、心に汚れのない人々ーかれらは実に『煩悩の激流を乗り超えた人々である』とわたしは説くのである。』

 

 

1083 「偉大な仙人のことばを聞いて、わたくしは歓喜します。ゴーダマ(ブッダ)さま。再生の要素のない境地がみごとに説き明かされました。この世において(哲学的)見解や伝承の学問や想定や戒律や誓いをすっかり捨てて、また種々のしかたをすっかり捨てて、妄執をよく究め明かして、心に汚れのない人々、ーかれらは実に『煩悩の激流を乗り超えた人々である』と、わたくしもまた説くのであります。」

 

 

 

わたしは『すべての道の人・バラモンたちが生と老衰とに覆(おお)われていると、説くのではない。この世において人間的思考の運動を制止して、その二元の偏った見方による両極端の見解や伝承の学問や想定や戒律や誓いをすっかり捨て、また種々のこだわったしかたをもすっかり捨てて、すなわち、その道の喜びやこだわりを捨て、なにが妄執かをよく究(きわ)め明(あか)かして、心に二元の汚れのない人々ーかれらは実に『煩悩の激流を乗り超えた人々である』とわたしは説くのである。』人間は、実に様々な人間的思考の運動をする。伝承の学問や戒律を守れば、安心し、守れなければ不安になるという。この安心⇔不安の運動である。また、伝承の学問や戒律を守っている者が正しく、それ以外の者は誤りであると言う。正⇔誤の運動である。この運動をしている限り、一時的に安心できても、運動をするので、時間とともに不安へと変化するのである。おおよそ、それらの人間的思考の運動は全て苦の元であると知って、修行者よ、自らの人間的思考の運動を制して、人間的思考の運動による喜びを捨て去って、彼の岸へ到達せよ。

スッタニパータ 学生ナンダの質問1080の解説

1079 ナンダさんがいった。「およそこれらの〈道の人〉・バラモンたちは、(哲学的)見解によって、また伝承の学問によっても、清浄になれると言います。戒律や誓いを守ることによっても清浄になれると言います。そのほか種々のしかたで清浄になれるとも言います。先生!かれらはそれらにもとづいてみずから制して修行しているのですが、はたして生と老衰とを乗り超(こ)えたのでしょうか?わが親愛なる先生!あなたにおたずね致します。それをわたくしに説いてください。」

 

 

1080 師(ブッダ)は答えた、「ナンダよ。これらの〈道の人〉・バラモンたちはすべて、〈哲学的〉見解によって清浄になり、また伝承の学問によっても清浄になると説く。戒律や誓いを守ることによっても清浄になるとも説く。(そのほか)種々のしかたで清浄になるとも説く。たといかれらがそれらにもとづいてみずから制して行っていても、生と老衰とを乗り超えたのではない、とわたしは言う」

 

 

 

これらの人間的思考の運動が止まっていない道の人・修行者たちはすべて、自らの二元の思考すなわち快⇔不快の運動にもとづいて、快と感じる理想を追求し、哲学的見解によって清浄になり、また伝承の学問によっても清浄になると説く。戒律や誓いを守ることによっても清浄になるとも説く。そのほか種々のしかたで清浄になるとも説く。たといかれらがそれら人間的思考の反応の仕方にもとづいてみずからを制して行っていても、二元の運動を制していないが故に、あるときは、理想とした姿が目の前に現れ、またあるときは、全く逆の姿として現れる。人々は、理想とした一時的な姿を見て、それを追求するが、それは運動をするので、必ず逆の現象が起こるのである。この人間的思考の運動を制しない限り、かれらは生と老衰とを乗り超えたのではない、とわたしは言う。

 

スッタニパータ 学生ナンダの質問1078の解説

1077 ナンダさんがたずねた、「世間には諸々の聖者がいる、と世人は語る。それはどうしてですか?世人は知識をもっている人を聖者と呼ぶのですか?あるいは〔簡素な〕生活を送る人を聖者と呼ぶのですか?」

 

 

1078 (ブッダが答えた)、「ナンダよ。世のなかで、真理に達した人たちは、(哲学的)見解によっても、伝承の学問によっても、知識によっても聖者だとは言わない。(煩悩の魔)軍を撃破して、苦悩なく、望むことなく行う人々、ーかれらこそ聖者である、とわたしは言う。」

 

 

ナンダよ。世のなかで、真理に達した人たちは、哲学的見解によっても、伝承の学問によっても、知識によっても聖者だとは言わない。自らの人間的思考の運動を止めて煩悩の魔軍を撃破して、苦悩なく、呂極端を望むことなく行う人々、ーかれらこそ聖者である、とわたしは言う。この人間的思考の運動が止まっていない状態の人間は、哲学的見解によって正⇔誤の運動をするために苦を生じ、知識によって正⇔誤の運動をするために苦を生じる。いかにその道を究めようとも、人間的思考の運動をしている限り聖者とは呼ばないのである。全ての、人間的思考の運動を制して行うもの。かれこそは、自らを制して苦悩なく彼の岸へ渡り終わった聖者だという。

 

スッタニパータ 学生ウパシーヴァの質問1076の解説

1075 「滅びてしまったその人は存在しないのでしょうか?或いはまた常住であって、そこなわれないのでしょうか?聖者さま。どうかそれをわたくしに説明してください。あなたはこの理法をあるがままに知っておられるからです。」

 

 

1076 師は答えた、「ウパシーヴァよ。滅びてしまった者には、それを測(はか)る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない。あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、あらゆる論議の道はすっかり絶えてしまったのである。」

 

 

 

人間的思考を完全に制止し、あらゆる執着の種を絶やしてしまった者には、もはや転生の素因を測る基準が存在しない。かれを論ずる余地は、もはや残されてなく、あらゆる転生の素因がすっかり絶やされたとき、かれを生まれさせる論議の道は絶えて、もはやこの無常の世には、戻らない存在となったのである。

スッタニパータ 学生ウパシーヴァの質問1074の解説

1073 「あまねく見る方(かた)よ。もしもかれがそこから退きあともどりしないで多年そこにとどまるならば、かれはそこで解脱して、清涼(しょうりょう)となるのでしょうか?またそのような人の識別作用は(あとまで)存在するのでしょうか?」

 

 

1074 師が答えた、「ウパシーヴァよ。たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は滅びてしまって(火としては)数えられないように、そのように聖者は名称と身体から解脱して滅びてしまって、(存在する者としては)数えられないのである。」

 

 

師が答えた、「ウパシーヴァよ。たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は滅びてしまって火としては数えられないように、そのように聖者は、この無常の世に存在する名称と身体(形)から解脱して滅びてしまって、存在する者としては数えられないのである。」人は、人間的思考の運動によってものごとを分け、それを取る。無常の世では必ず、いつかはは失われるのであるから、また想いによって生まれるのである。その想いを完全に制止した者、それが聖者と呼ばれる。

スッタニパータ 学生ウパシーヴァの質問1072の解説

1071 ウパシーヴァさんがいった、「あらゆる欲望に対する貪(むさぼり)りを離れ、無所有にもとづいて、その他のものを捨て、最上の〈想いからの解脱〉において解脱した人、ーかれは退きあともどりすることなく、そこに安住するでありましょうか?」

 

 

1072 師は答えた、「ウパシーヴァよ。あらゆる欲望に対する貪りを離れ、無所有にもとづいて、その他のものを捨て、最上の〈想いからの解脱〉において解脱した人、ーかれは退きあともどりすることなく、そこに安住するであろう。」

 

 

 

師は答えた、「ウパシーヴァよ。人間的思考の運動を制止してあらゆる欲望に対する貪りを離れ、快⇔不快の両極端に分けないことによる無所有にもとづいて、その他のものを捨て、最上の人間的思考の運動による想いからの解脱において完全に運動を制止して解脱した人、ーかれは退きあともどりすることなく、そこに安住するであろう。」