1107 平静な心がまえと念(おも)いの清らかさ、ーそれらは真理に関する思索にもとづいて起こるものであるが、ーこれが、無明を破ること、正しい理解による解脱、であると、わたくしは説く。」
人間的思考の運動を止めた状態である、すなわち中道の平静な心がまえと念(おも)いの清らかさ、それらは、人間的思考の運動を止めた状態の真理に関する思索にもとづいて起こるものであるが、ーこれが、人間的思考を制止して無明を破ること、中道を保った正しい理解による解脱、であると、わたくしは説く。
suttanipata
info@suttanipata.com
1107 平静な心がまえと念(おも)いの清らかさ、ーそれらは真理に関する思索にもとづいて起こるものであるが、ーこれが、無明を破ること、正しい理解による解脱、であると、わたくしは説く。」
人間的思考の運動を止めた状態である、すなわち中道の平静な心がまえと念(おも)いの清らかさ、それらは、人間的思考の運動を止めた状態の真理に関する思索にもとづいて起こるものであるが、ーこれが、人間的思考を制止して無明を破ること、中道を保った正しい理解による解脱、であると、わたくしは説く。
1105 ウダヤさんがたずねた、「瞑想に入って坐(ざ)し、塵垢(ちりあか)を離れ、為(な)すべきことを為しおえ、煩悩の汚れなく、一切の事物の彼岸(ひがん)に達せられた(師)におたずねするために、ここに来ました。無明(むみょう)を破ること、正しい理解による解脱(げだつ)、を説いてください。」
1106 師(ブッダ)は答えた、「ウダヤよ。愛欲と憂(うれ)いとの両者を捨て去ること、沈んだ気持ちを除くこと、悔恨(かいこん)をやめること。
異性に対する肉体的な欲求は、人間的思考の運動である快⇔不快の運動にもとづいたものであるから、これを捨て去る。では、どのような形があるべき姿なのか?本来、男性と女性は、思考の巡り方が逆なのである。自らと異なる思考を受け入れ人間的思考を止める事によって、お互いを理解し、一つの事を成し遂げる。これが本来のあるべき姿である。人間的思考の運動(快⇔不快)をすると憂いも立ち上がる。これも、運動を制することによって捨て去るのである。浮き沈みもまた、人間的思考の運動であり、悔恨もまた、過去の出来事を分別することによって起こるのである。かの解脱者は、人間的思考の運動を常に制して遂には彼の岸へ到達したのである。
1104 それ故に、修行者は明らかに知って、よく気をつけ、全世界においてなにものをも執してはならない。ー死の領域に愛着を感じているこの人々を〈取る執著ある人々〉であると観(み)て。」
それ故に、修行者は苦の根源が、人間的思考の運動によるものだと明らかに知って、自らの反応の仕方によく気をつけ、全世界においてなにものをも執してはならない。ー死の領域に愛着を感じているこの人々、すなわち想いによってまた、生まれ変わりたいと想う人々を人間的思考の運動による執著ある人々であると観(み)て。人は、人間的思考の想いによって、この無常であり変化あるこの世に生まれてくる。変化ある世界で人は常住を求めるのであるから、必ず苦を生じる。そう、この世は苦の世界なのである。そして、必ず死ぬ世界でもある。修行者よ、この世界に執着を生じてはならない。そして、彼の岸へ到達せよ。
1101 バドラーヴダさんがたずねた、「執著の住所をすて、妄執を断ち、悩み動揺することなく、歓喜をすて、激流を乗り超え、すでに解脱(げだつ)し、はからいをすてた賢明な(あなた)に切にお願いします。
1102 健き人よ。あなたのおことばを聞こうと希望して、多勢の人々が諸地方から集まって来ましたが、竜(ブッダ)のおことばを聞いて、人々はここから立ち去るでしょう。かれらのために善く説明してやってください。あなたはこの理法をあるがままに知っておられるのですから。」
1103 師(ブッダ)は答えた、「バドラーヴダよ。上にも下にも横にでも中間にでも、執著する妄執をすっかり除き去れ。世の中の何ものに執着しても、それによって悪魔が人につきまとうに至る。
上にも下にも横にでも中間にでも、人間的思考の運動による感覚的感受を制し、執著する妄執をすっかり除き去れ。世の中の何ものに執着しても、それによって人間的思考の運動すなわち、禍福が悪魔のように人につきまとうに至る。一時的に人間的思考の運動による快を得たとしても、それは、運動をするので、全く反対のもの、すなわち不快が目の前に現れる。この運動を人間はしているのである。この運動をしている限り、人は、快を得ても、悪魔のような不快につきまとわられる運動に陥るのである。
1100 バラモンよ。名称と形態とに対する貪りを全く離れた人には、諸々の煩悩は存在しない。だから、かれは死に支配されるおそれがない。」
修行者よ。名称と形態とに対する人間的思考の運動を制して、貪りを全く離れた人には、諸々の煩悩すなわち分けて取ろうとする想いは存在しない。だから、かれは、その想いによって再びこの無常の世に生まれることは無く、死に支配されるおそれがない。
1099 過去にあったもの(煩悩)を涸渇(こかつ)せしめよ。未来にはそなたに何ものもないようにせよ。中間においても、そなたが何ものにも執著(しゅうじゃく)しないならば、そなたはやすらかにふるまう人となるであろう。
人間的思考の運動により過去に分けた反応の結果である煩悩を枯渇せしめよ。未来には、人間的思考の運動を制して、両極端に分けないようにせよ。現在においても、人間的思考の運動である反応の仕方によく気をつけ何ものにも執着しないならば、そなたはやすらかにふるまう人となるであろう。
1096 ジャトゥカンニンさんがたずねた、「わたくしは、勇士であって、欲望をもとめない人がいると聞いて、激流を乗り超(こ)えた人(ブッダ)に〈欲のないこと〉をおたずねしようとして、ここに来ました。安らぎの境地を説いてください。生まれつき眼(まなこ)のある方(かた)よ。先生!それを、あるがままに、わたくしに説いてください。
1097 師(ブッダ)は諸々の欲望を制してふるまわれます。譬えば、光輝ある太陽が光輝によって大地にうち克(か)つようなものです。智慧ゆたかな方(かた)よ。智慧の少いわたくしに理法を説いてください。それをわたくしは知りたいのです、ーこの世において生と老衰とを捨て去ることを。」
1098 師(ブッダ)は答えた、「ジャトゥカンニンよ。諸々の欲望に対する貪(むさぼ)りを制せよ。ー出離(しゅつり)を安穏(あんのん)であると見て。取り上げるべきものも、捨て去るべきものも、なにものも、そなたたちにとって存在してはならない。
ジャトゥカンニンよ。諸々の人間的思考の運動による欲望に対する貪(むさぼ)りを制せよ。その人間的思考の運動から出たところの出離(しゅつり)を安穏(あんのん)であると見て、両極端に分ける事をやめ、取り上げるべきものも、捨て去るべきものも、なにものも、そなたたちにとって存在してはならない。人間は、人間的思考の運動によって快と感じたものを欲しいと感じそれを取る。また、不快と感じたものを捨てる。この運動を繰り返して、禍福が縄のごとく苦楽が襲いかかるのであるから、その運動から出ることである。
1095 このことをよく知って、よく気をつけ、現世において全く煩(わずら)いを離れた人々は、悪魔に伏せられない。かれらは悪魔の従者とはならない。」
自らの人間的思考の運動による反応の仕方によく気をつけ、現世において、全く両極端の想いから離れた人々は、両極端の誘惑、すなわち悪魔のような誘惑に伏せられない。かれらは、その悪魔のような誘惑の従者、人間的思考の運動の赴くままには行動せず、それを制して、遂には、彼の岸へ到達するのである。
1094 いかなる所有もなく、執着して取ることがないこと、ーこれが洲(避難所)にほかならない。それをニルヴァーナと呼ぶ。それは老衰と死との消滅である。
人間は、ものごとをすぐに、快、不快の2つに分け、その両極端に執着をし、欲しい欲しいと言う想いから所有をする。いかなる所有もなく、執着して取ることがないこと、これが、非難すべき洲であり避難所に他ならない。すなわち人間的思考の運動によって両極端に分ける事をやめ、執着をしないことである。人は、人間的思考の運動を完全に制止したときに、ニルヴァーナへと至り、その想いから解放され、老衰と死から解放される。それは、老衰と死との消滅である。
1092 カッパさんがたずねた、「極めて恐ろしい激流が到来したときに一面の水浸しのうちにある人々、老衰と死とに圧倒されている人々のために、洲(す)(避難所、よりどころ)を説いてください。あなたは、この(苦しみ)がまたと起らないような洲(避難所)をわたくしに示してください。親しき方よ。」
1093 師(ブッダ)は答えた、「カッパよ。極めて恐ろしい激流が到来したときに一面の水浸しのうちにある人々、老衰と死とに圧倒されている人々のための洲(避難所)を、わたくしは、そなたに説くであろう。
当時のインドでは、度々水難に人々は襲われ、水のこない州に非難していたと事からこの表現がよく使われた。ちょうど、現在の日本でも同じような現象が起きている。この世は無常であるから、我々は、常に変化の世界に住んでおり、洪水などが起こって、死の恐怖に見舞われることもあるのである。また、生を受けた者は必ず死に、若き者も必ず老いる。この世は無常なのである。それを知らずして、人は苦を生じる。そして常住を求めて執着をしてまた、この無常の世に生まれてくる。この生⇔死の運動そして変化ある時間の運動すなわち苦⇔楽の運動を制止したとき、人は安穏を観ることが出来るのである。