766 欲望をかなえたいと望んでいる人が、もしもうまくいくならば、かれは実に人間の欲するものを得て、心に喜ぶ。
人間的思考の運動による二元の運動によって、欲望をかなえたいと望んでいる人が、もしもうまくいくならば、二元の運動の振り子は大きくかれの欲する方に振れ、かれは実に人間の欲するものを得て、心に喜ぶ。しかし、この運動は振り子であるから、時間と共に全く正反対の方へと運動するのである。この道理を知ったならば、修行者は、人間的思考の運動を止めることに注視し、自らの荒波を乗り越えよ。
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766 欲望をかなえたいと望んでいる人が、もしもうまくいくならば、かれは実に人間の欲するものを得て、心に喜ぶ。
人間的思考の運動による二元の運動によって、欲望をかなえたいと望んでいる人が、もしもうまくいくならば、二元の運動の振り子は大きくかれの欲する方に振れ、かれは実に人間の欲するものを得て、心に喜ぶ。しかし、この運動は振り子であるから、時間と共に全く正反対の方へと運動するのである。この道理を知ったならば、修行者は、人間的思考の運動を止めることに注視し、自らの荒波を乗り越えよ。
お釈迦様が説かれたスッタニパータは、苦からの脱出である。現代お経にもその一部を垣間見ることができる。寂静にして、すなわち、人間的思考の運動を止めて中道を保てば、一切の大難は来ないと説かれている。人間的思考の運動が発生し両極端の反応の仕方をすると、そこには激流が発生し、次々と同様の現象が襲いかかる。逆に自らの運動によく気をつけて、中道を保つことが出来たならば、その波は穏やかとなり、安穏は保たれるのである。そのように修行者は、自らの反応の仕方に常に注視し、その運動を止めて、日々過ごし、彼の岸へ到達せよ。
1146 「ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、そのように汝もまた信仰を捨て去れ。そなたは死の領域(りょういき)の彼岸(ひがん)に至るであろう。ピンギヤよ。」
ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、人間は、人間的思考の運動で分けた選択によって信仰をするのである。完全に中道を極めるまでは信仰を捨ててはならぬが、完全に中道を極めたのちは、そのように汝もまた信仰を捨て去れ。信仰による生まれ変わりをも捨てて、そなたは遂には彼の岸(ひがん)に至り解脱するであろう。ピンギヤよ。
1122 「四方と思惟(しい)と上と下と、これらの十方の世界において、あなたに見られず聞かれず考えられずまた識(し)られないなにものもありません。どうか理法を説いてください。それをわたくしは知りたいのです、ーこの世において生と老衰とを捨て去ることを。」
1123 師(ブッダ)は答えた、「ピンギヤよ。ひとびとは妄執に陥って苦悩を生じ、老いに襲われているのを、そなたは見ているのだから、それ故に、ピンギヤよ、そなたは怠ることなくはげみ、妄執を捨てて、再び迷いの生存にもどらないようにせよ。」
ピンギヤよ。ひとびとは、人間的思考の運動が止められずに妄執に陥って苦悩を生じ、老いに襲われているのを、そなたは見ているのだから、それ故に、ピンギヤよ、そなたは怠ることなく人間的思考の運動を制することに、はげみ、人間的思考の運動の反応の仕方から来るところの妄執を捨てて、再び迷いの生存にもどらないようにせよ。
1120 ピンギヤさんがたずねた、「わたくしは年をとったし、力もなく、容貌も衰えています。眼もはっきりしませんし、耳もよく聞こえません。わたくしが迷ったままで途中で死ぬことのないようにしてください。ーどうしたらこの世において生と老衰とを捨て去ることができるか、そのことわりを説いてください。それをわたくしは知りたいのです。」
1121 師(ブッダ)は答えた、「ピンギヤよ。物質的な形態があるが故に、人々が害(そこな)われるのを見るし、物質的な形態があるが故に、怠る人々は(病いなどに)悩まされる。ピンギヤよ。それ故に、そなたは怠ることなく、物質的形態を捨てて、再び生存状態にもどらないようにせよ。」
ピンギヤよ。人間は、人間的思考の運動が止められず、両極端の想いによって起こる執着によってこの物質世界すなわち失われてゆく形態をもって生まれてくる。物質的な形態があるが故に、時間と共に人々が害(そこな)われるのを見るし、物質的な形態があるが故に、人間的思考の運動を止めることを怠る人々は病いなどに悩まされる。ピンギヤよ。それ故に、そなたは怠ることなく、人間的思考の運動を止めて物質的形態を捨てて、再び失われる生存状態にもどらないように解脱せよ。
1116 モーガラージャさんがたずねた、「わたくしはかつてシャカ族の方に二度おたずねしましたが、眼(まなこ)ある方(釈尊)はわたくしに説明してくださいませんでした。しかし『神仙(釈尊)は第三回目には説明してくださる』とわたくしは聞いております。
1117 この世の人々も、かの世の人々も、神々と、梵天(ぼんてん)の世界の者どもも、誉(ほま)れあるあなたゴーダマ(ブッダ)の見解を知ってはいません。
1118 このように絶妙な見者(みて)におたずねしようとしてここに来ました。どのように世間を観察する人を、死王は見ることがないのですか?」
1119 (ブッダが答えた)、「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空(くう)なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り超えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、〈死の王〉は見ることがない。」
つねに自らの人間的思考の運動による反応の仕方によく気をつけ、自我すなわち自らの反応の仕方によるこだわりに強く執着する気持ちをうち破って、この世界の無常を知り、世界を空(くう)なりと観ぜよ。人間的思考の運動による望みは、かなったとしても一時的なものである。それは運動をするので、反対のものが目の前に現れてくるのであるから、その運動を制するのだ。そうして、この世の無常を悟り空を観じる。そうすれば死を乗り超えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、死の王は見ることがない。解脱してもうこの無常の世に生まれてくることは無いのである。
1115 無所有の成立するもとを知って、すなわち『歓喜は束縛である』ということを知って、それをこのとおりであると知って、そこから(出て)それについてしずかに観ずる。安立したそのバラモンには、この〈ありのままに知る智〉が存する。」
無所有の成立するもと(人間的思考の運動が止まった状態)を知って、すなわち『歓喜を喜び欲しあくせくすることは束縛である』ということを知って、それは、人間的思考の運動による欲望にもとづいた行動であると知って、その運動から出て中道を保ちそれについてしずかに観ずる。安立した(中道を保った)そのバラモンには、両極端を制しているので、このありのままに知る智が存する。
1112 ポーサーラさんがたずねた、「過去のことがらを説示し、悩み動揺することなく、疑惑を断ち、一切の事物を究めつくした(師)におたずねするために、ここに来ました。
1113 物質的なかたちの想いを離れ、身体をすっかり捨て去り、内にも外にも『なにものも存在しない』と観ずる人の智を、わたくしはおたずねするのです。シャカ族の方よ。そのような人はさらにどのように導かれねばなりませんか?」
1114 師(ブッダ)は答えた、「ポーサーラよ。すべての〈識別作用の住するありさま〉を知りつくした全き人(如来(にょらい))は、かれの存在するありさまを知っている。すなわち、かれは解脱(げだつ)していて、そこをよりどころとしていると知る。
全ての識別作用のありさま。すなわちこのような運動の仕方をしているものはこうなると言う行く末を知りつくした如来は、かれがどのような反応の仕方によってそこに存在しているのかを知る。すなわちかれは、人間的思考の運動(快⇔不快)を制して、解脱し、中道に至りそこをよりどころとしていると知る。
1110 「どのようによく気をつけて行なっている人の識別作用が、止滅(しめつ)するのですか?それを先生におたずねするためにわたくしはやってきたのです。あなたのそのおことばをお聞きしたいのです。」
1111 「内面的にも外面的にも感覚的感受を喜ばない人、このようによく気をつけて行なっている人、の識別作用が止滅するのである。」
内面的すなわち心の中でも、外面的、目、耳、鼻、舌、肌、で感じる感覚的感受においても、人間的思考すなわち快⇔不快に分けない人。このように日々よく気をつけて生活をしている人の識別作用が止滅するのである。
1108 「世人は何によって束縛(そくばく)されているのですか?世人をあれこれ行動させるものは何ですか?何を断ずることによって安らぎ(ニルヴァーナ)があると言われるのですか?」
1109 「世人は歓喜に束縛されている。思わくが世人をあれこれ行動させるものである。妄執を断ずることによって安らぎがあると言われる。」
世の中の人々は、歓喜を受けるとそれをまた欲し、その想いによって束縛される。その想いが人をあくせく行動させるのである。すなわちその想いによって常にあくせくし、束縛されて行く。この人間的思考の運動である(快⇔不快)の運動にもとづいた。両極端にこだわる執着。すなわち妄執を人間的思考の運動を止めることによって断じ、中道に帰する事によって安らぎがあると言われるのである。