スッタニパータ

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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02月

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇882の解説

882 諸々の愚者が相互に他人に対して言うことばを聞いて、わたくしは「これは真実である」とは説かない。かれらは各自の見解を真実であるとみなしたのだ。それ故にかれらは他人を「愚者」であると決めつけるのである。

 

 

 

諸々の愚者すなわち人間的思考の運動(優⇔劣)の範疇にあるものが相互に他人に対して言うことばを聞いて、わたくしは「これは真実である」とは説かない。かれらは各自の見解を真実であるとみなしたのだ。それ故にかれらは他人を「愚者」であると決めつけるのである。知者とは、このような両極端の思考による運動から離脱したものなのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇881の解説

881 またもしも自分の見解によって清らかとなり、自分の見解によって、真理に達した人、聡明な人となるのであるならば、かれらのうちには知性のない者はだれもいないことになる。かれらの見解は(その点で)等しく完全であるからである。

 

 

 

またもしも自分の智慧によって清らかとなり、自分の智慧によって、真理に達した人、聡明な人となるのであるならば、かれらのうちには知性のない者はだれもいないことになる。かれらの智慧はその点で等しく完全であるからである。しかるに人間的思考の運動による偏った見方によって自らの見方が優れ他者の見方が劣っているとみるのであれば、それは、人間的思考の運動(優⇔劣)であるから揺らぐ自らの考えに執着しているのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇880の解説

880 もしも論敵の教えを承諾しない人が愚者であって、低級な者であり、智慧の劣った者であるならば、これらの人々はすべて(各自の)偏見を固執しているのであるから、かれらはすべて愚者であり、ごく智慧の劣った者であるということになる。

 

 

 

もしも論敵の教えを承諾しない人が愚者であって、低級な者であり、智慧の劣った者であるならば、これらの人々はすべて各自の人間的思考の運動(優⇔劣)による偏った見方を固執しているのであるから、かれらはすべて愚者であり、ごく智慧の劣った者であるということになる。修行者とは、自らを磨くことに努め励み、他にとらわれないものである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇879の解説

879 かれらはこのように異なった執見をいだいて論争し、「論敵は愚者であって、真理に達した人ではない」と言う。これらの人々はみな「自分こそ真理に達した人である」と語っているが、これらのうちで、どの説が真実なのであろうか?

 

 

かれらはこのように異なった自らの見方に執着(苦)をいだいて論争し、人間的思考の運動(真理者⇔愚者)の反応の仕方により「論敵は愚者であって、真理に達した人ではない」と言う。これらの人々はみな「自分こそ真理に達した人である」と語っているが、これらのうちで、どの説が真実なのであろうか?そもそも真理に達した人々は、自らの考えにこだわることなく人間的思考の運動を制するものなのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇878の解説

878 (世の中の学者たちは)めいめいの見解に固執して、互いに異なった執見(しゅうけん)をいだいて争い、(みずから真理への)熟達者であると称して、さまざまに論ずる。ー「このように知る人は真理を知っている。これを非難する人はまだ不完全な人である」と。

 

 

世の中の学者たちはめいめいの人間的思考の運動(正⇔誤)による見解に固執して、互いに異なった自らの見方に執着をいだいて争い、みずから真理への熟達者であると称して、さまざまに論ずる。ー「このように知る人は真理を知っている。これを非難する人はまだ不完全な人である」と。他の見方が自らの修行と何のかかわりがあるのであろうか?その思考の運動こそが人間的思考なのである。

 

 

スッタニパータ 争闘876、877の解説

875 「われらがあなたにおたずねしたことを、あなたはわれわれに説き明かしてくださいました。われらは別のことをあなたにおたずねしましょう。どうか、それを説いてください。ーこの世における或る賢者たちは、『この状態だけが、霊(たましい)の最上の清浄の境地である』とわれらに語ります。しかしまた、それよりも以上に、『他の(清浄の境地)がある』と説く人々もいるのでしょうか?」

 

 

876 「この世において或る賢者たちは、『霊の最上の清浄の境地はこれだけのものである』と語る。さらにかれらのうちの或る人々は断滅を説き、(精神も肉体も)残りなく消滅することのうちに(最上の清浄の境地がある)と巧(たく)みに語っている。

 

 

877 かの聖者は、『これらの偏見はこだわりがある』と知って、諸々のこだわりを熟考し、知った上で、解脱(げだつ)せる人は論争におもむかない。思慮ある賢者は種々なる変化的生存を受けることがない。」

 

 

 

「この世において或る賢者たちは、人間的思考の運動(優⇔劣)による反応の仕方により『霊の最上の清浄の境地はこれだけのものである』と語る。さらにかれらのうちの或る人々は人間的思考の運動(優⇔劣)による反応の仕方により断滅を説き、精神も肉体も残りなく消滅することのうちに最上の清浄の境地があると巧(たく)みに優れていると語っている。かの聖者は、『これらの偏見は人間的思考の運動(優⇔劣)によるこだわりがある』と知って、諸々のこだわりである反応の仕方を熟考し、知った上で、解脱(げだつ)せる人は論争におもむかない。思慮ある賢者は種々なる変化的生存すなわち優⇔劣による運動を受けることがない。」15

 

スッタニパータ 争闘874の解説

873 「どのように修行した者によって、形態が消滅するのですか?楽と苦はいかにして消滅するのですか?どのように消滅するのか、その消滅するありさまを、わたくしに説いてください。わたくしはそれを知りたいものです。ーわたくしはこのように考えました。」

 

 

874 「ありのままに想う者でもなく、誤って想う者でもなく、想いなき者でもなく、想いを消滅した者でもない。ーこのように理解した者の形態は消滅する。けだしひろがりの意識は、想いにもとづいて起るからである。」

 

 

 

人間的思考の運動(快⇔不快)による「想い」制せよ「ありのままに「想う」者でもなく、誤って「想う」者でもなく、「想い」なき者でもなく、「想い」を消滅した者でもない。ーこのように理解した者の形態は消滅する。けだしひろがりの意識は、「想い」にもとづいて起こるからである。」

理法とは?

お釈迦さまがお亡くなり(遷化)になるときにいわれました。

法を寄りどころとし、法を信じて歩め

例えば、師などを寄りどころとした場合、この世は無常ですから

いつまでもいるとは限らないわけです

では、法とは何でしょうか?

法=理法=ダンマと呼ばれるもの

それは、自らの内にあるものです

そう、私たち自らが法なのです

私たちが法を表し、自らの内に法がある

どのようにしたら法がわかるのでしょうか?

それは、自らを見ることです。

自らを観察する。

そして自らを正して法を顕現する。

そのためには、わき道にそれないようにする

そう、両極端の運動を止めることによって

しっかりと自らを見ることができるようになります。

私たちは、お風呂に入らないと、臭くなり、汚れていきます。

それと同じように、私たちの内面も磨かないと汚れていくのです。

そうして、よく気を付けて歩かないと障害物にぶつかって怪我をすることもあります。

同じように、心もよく気を付けて中道を歩ませないと怪我をするのです。

私たちもこの世の中に出て、大人になるにしたがっていろいろなことを学ぶように

よく気を付けるうちに理法によって様々なことを学ぶでしょう。

様々なことがわかることによって、道が照らされ

遂には、周りをも照らす存在となるのです。

彼の岸へと向かう修行

我々修行者は、このスッタニパータと出会って、仏縁をいただき、彼の岸を目指します。

その修行の道はもう見えているのです。

我々は、日々、戒を保って、定に入り、慧が生まれそれを積み重ねていくわけですが

戒とは何か?人間的思考の運動を止めることです

止めるにはどうすればいいのか?

自らの心をしっかり観察すること

これが戒となります。

次に定とは何か?

集中することです。

集中できなければ、自分の心を見ることはできません。

常に集中する。そうして自分の心の動き、目の前に現れた現象をよく観察する。

そうすることによって気づきが生まれそれが慧となります。

つまり、この戒、定、慧によって、彼の岸への道が照らされます。

そうして、我々修行者は、その道を歩むだけなのです。

日々の集中、戒を保って、そこから生まれるところの智慧によって遂には、彼の岸へと到達できるでしょう。

そうして自らの目で見て知る。知見が信となるのです。

スッタニパータ 争闘872の解説

871 「世の中で感官による接触は何にもとづいて起るのですか?また所有欲は何から起るのですか?何ものが存在しないときに、〈わがもの〉という我執が存在しないのですか?何ものが消滅したときに、感官による接触がはたらかないのですか?」

 

 

872 「名称と形態とに依って感官による接触が起る。諸々の所有欲は欲求を縁として起る。欲求がないときには、〈わがもの〉という我執も存在しない。形態が消滅したときには〈感官による接触〉ははたらかない。」

 

 

「名称と形態とに依って感官による接触が起る。諸々の所有欲は接触による人間的思考の運動(快⇔不快)による欲求を縁として起る。人間的思考の運動(快⇔不快)を制して欲求がないときには、わがものという我執も存在しない。限りなく人間的思考の運動(快⇔不快)を制して、解脱し形態が消滅したときには感官による接触ははたらかない。」