スッタニパータ

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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10月

スッタニパータ  死ぬよりも前に849の解説

848 「どのように見、どのように戒律をたもつ人が『安らかである』と言われるのか?ゴータマ(ブッダ)よ。おたずねしますが、その最上の人のことをわたしに説いてください。」

 

 

849 師は答えた、「死ぬよりも前に、妄執を離れ、過去にこだわることなく、現在においてもくよくよと思いめぐらすことがないならば、かれは(未来に関しても)特に思いわずらうことがない。

 

 

師は答えた、「死ぬよりも前に、人間的思考の運動を制し妄執を離れ、過去に分別した記憶にこだわることなく、現在においても人間的思考の運動がもたらす現象にくよくよと思いめぐらすことがないならば、かれは未来に関しても人間的思考の運動による想いを制止し特に思いわずらうことがない。実に人間的思考の運動による想いは蓄積され、過去において、また現在において、未来においても分別し、その想いを思い出しては激しく運動をするのである。それを知って修行者は、過去においての、現在においての、未来に対しての想いを制して世の中を遍歴せよ。

 

スッタニパータ  マーガンディヤ847の解説

847 想いを離れた人には、結ぶ縛(いまし)めが存在しない。智慧によって解脱(げだつ)した人には、迷いが存在しない。想いと偏見とに固執した人々は、互いに衝突しながら、世の中をうろつく。」

 

 

 

人間的思考の運動による想いを離れた人には、結ぶ縛(いまし)めが存在しない。人間的思考の運動を制した後に繋がった智慧によって解脱(げだつ)した人には、迷いが存在しない。人間的思考の運動のままに想いと偏見とに固執した人々は、互いに衝突しながら、世の中をうろつく。この人間的思考の運動は振り子のようなものであり、あるときは喜び、またあるときは苦しむ、このような運動を繰り返す。修行者はそれを知って、人間的思考の運動を制し、この苦楽による迷いの流転から解脱せよ。

スッタニパータ  マーガンディヤ846の解説

846 ヴェーダの達人は、見解についても、思想についても、慢心に至ることがない。かれの本性はそのようなものではないからである。かれは宗教的行為によっても導かれないし、また伝統的な学問によっても導かれない。かれは執着の巣窟に導きいれられることがない。

 

 

修行の達人は、見解についても、思想についても、慢心に至ることがない。かれの本性は、人間的思考の運動によって比較対象するような運動の思考ではないからである。かれは宗教的行為によっても導かれないし、また伝統的な学問によっても導かれない。かれは人間的思考の運動(正⇔邪)による執着の巣窟に導きいれられることがない。かれはあらゆる目の前に現れる執着の対象に対しての人間的思考の運動を制し安らぎに帰している。

スッタニパータ  マーガンディヤ845の解説

845 竜(修行完成者)は諸々の(偏見)を離れて世間を遍歴するのであるから、それらに固執して論争してはならない。たとえば汚れから生(は)える、茎に棘(とげ)のある蓮(はす)が、水にも泥にも汚されないように、そのように聖者は平安を説く者であって、貪(むさぼ)ることなく、欲望にも世間にも汚されることがない。

 

 

 

竜(修行完成者)は諸々の偏見(人間的思考の運動による偏った見方)を離れて世間を遍歴するのであるから、それらに人間的思考の運動による見方に固執して論争してはならない。たとえば汚れから生(は)える、茎に棘(とげ)のある蓮(はす)が、水にも泥にも汚されないように、そのように聖者は、両極端を制し平安を説く者であって、両極端を貪(むさぼ)ることなく、欲望にも世間にはびこる人間的思考の運動による激流にも汚されることがない。

スッタニパータ  マーガンディヤ844の解説

844 家を捨てて、住所を定めずにさまよい、村の中で親交を結ぶことのない聖者は、諸々の欲望を離れ、未来に望みをかけることなく、人々に対して異論を立てて談論をしてはならない。

 

 

 

諸々の絆にもとづいた家を捨てて、場所にとらわれず住所を定めずにさまよい、何かを求めて村の中で親交を結ぶことのない聖者は、諸々の人間的思考の運動による欲望を離れ、未来を欲し望みをかけることなく、人間的思考の運動によって人々に対して異論を立てて談論をしてはならない。聖者は、それぞれの意見を尊重し高め合う存在と言われる。全ての人間的思考の運動を制して世の中の荒波を渡り終わり遂には彼の岸へ到達するのである。

スッタニパータ  マーガンディヤ843の解説

843 そのバラモンはどうして『(わが説は)真実である』と論ずるであろうか。またかれは『(汝の説は)虚偽(きょぎ)である』といって誰と論争するであろうか?『等しい』とか『等しくない』とかいうことのなくなった人は、誰に論争を挑(いど)むであろうか。

 

 

その人間的思考の運動を制しているバラモンはどうして『(わが説は)真実である』と論ずるであろうか。またかれは『(汝の説は)虚偽(きょぎ)である』といって誰と論争するであろうか?『等しい』とか『等しくない』とかいう運動のなくなった人は、誰に論争を挑(いど)むであろうか。論争はまさしく人間的思考の運動である。この運動は真実⇔虚偽と言った運動であり、等しい⇔等しくないと言う運動である。運動であるから、真実と思う想いも運動し、疑わしくなるのである。また、等しいと感じていたものがあるとき、その想いも運動し等しくないと感じるようになる。そうして、迷いの流転に飲み込まれるのである。さらに運動により心の中は激流である。振り子のように、あるときは正しく見え、またあるときは、誤りに見える。それを知って、修行者は、人間的思考の運動を制し、論争に挑まないのである。

スッタニパータ  マーガンディヤ842の解説

842 『等しい』とか『すぐれている』とか、あるいは『劣(おと)っている』とか考える人、ーかれはその思いによって論争するであろう。しかしそれらの三種に関して動揺しない人、ーかれには『等しい』とか、『すぐれている』とか、(あるいは『劣っている』とか)いう思いは存在しない。

 

 

人間的思考の運動による分別にもとづいて『等しい』とか『すぐれている』とか、あるいは『劣(おと)っている』とか考える人、ーかれはその思いによって論争するであろう。人はぞれぞれの見方分別の仕方あるいは好みがそれぞれなので、論争するのである。しかしそれらの三種に関して動揺しない人、すなわち人間的思考の運動を止めた人、ーかれには『等しい』とか、『すぐれている』とか、(あるいは『劣っている』とか)いう思いは存在しない。

スッタニパータ  マーガンディヤ841の解説

840 マーガンディアが言った、「もしも、『教義によっても、学問によっても、知識によっても、戒律や道徳によっても清らかになることができない』と説き、また『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができない』と説くのであれば、それはばかばかしい教えである、とわたくしは考えます。教義によって清らかになることができる、と或る人々は考えます。」

 

 

841 師は答えた、「マーガンディアよ。あなたは(自分の)教義にもとづいて尋(たず)ね求めるものだから、執着したことがらについて迷妄(めいもう)に陥(おちい)ったのです。あなたはこの(内心の平安)について微(かす)かな想いさえもいだいていない。だから、あなたは(わたくしの説を)『ばかばかしい』と見なすのです。

 

 

師は答えた、「マーガンディアよ。あなたは自分の人間的思考の運動にもとづき分別した教義にもとづいて尋(たず)ね求めるものだから、その運動によって執着したことがらについて迷妄(めいもう)に陥(おちい)ったのです。あなたはこの内心の平安について微(かす)かな想いさえもいだいていない。だから、あなたはわたくしの説を『ばかばかしい』と見なすのです。人間的思考の運動による信は、それは運動をするのであるときは安心し、あるときは不安になる。そして煩悩の荒波を作るのである。聖者はそれを知って全ての人間的思考の運動を制止して安らぎを観たのである。

スッタニパータ  マーガンディヤ839の解説

838 マーガンディアがいった、「聖者さま。あなたは考えて構成された偏見の定説を固執することなしに、〈内心の安らぎ〉ということをお説きになりますが、そのことわりを諸々の賢人はどのように説いておられるのでしょうか?」

 

 

839 師は答えた、「マーガンディアよ。『教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、わたくしは説かない。『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』、とも説かない。それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である)」

 

 

師は答えた、「マーガンディアよ。『教義による分別よって、学問による分別よって、知識によるふん物よって、戒律や道徳による分別よって清らかになることができる』とは、わたくしは説かない。『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』、とも説かない。それらにもとづいた人間的思考の運動(分別)を捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。これが内心の平安である。

 

スッタニパータ  マーガンディヤ837の解説

836 (マーガンディヤいった)、「もしもあなたが、多くの王者が求めた女、このような宝、が欲しくないならば、あなたはどのような見解を、どのような戒律・道徳・生活法を、またどうような生存状態に生まれかわることを説くのですか?」

 

837 師は答えた、「マーガンディヤよ。『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。諸々の事物に対する執着を執着であると確かに知って、諸々の偏見における(過誤(かご)を)見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。」

 

 

師は答えた、「マーガンディヤよ。人間的思考の運動による断定的な『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。諸々の事物に対する人間的思考の運動に、もとづいた執着を執着であると確かに知って、諸々の人間的思考の運動による偏った分別の過誤(かご)を)見て、人間的思考の運動を止めて固執することなく、運動を省察しつつ寂静に保って内心の安らぎをわたくしは見た。」