スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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04月

スッタニパータ 武器を執ること953のご法話

953 動揺して煩悩に悩まされることなく、叡智(えいち)ある人にとっては、いかなる作為も存在しない。かれはあくせくした営みから離れて、至るところに安穏を見る。

 

 

自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、運動によって動揺し煩悩に悩まされることなく、叡智(えいち)ある人にとっては、いかなる作為も存在しない。かれは運動がもたらす、あくせくした営みから離れて、至るところに安穏を見る。

スッタニパータ 武器を執ること952のご法話

952 苛酷なることなく、貪欲なることなく、動揺して煩悩に悩(なや)まされることなく、万物に対して平等である。ー動じない人について問う人があれば、その美点をわたくしは説くであろう。

 

 

修行者と人間的思考の運動(快⇔不快)が止められない世の人々とどのように違うのであろうか?修行者は、人間的思考の運動(快⇔不快)を制することによって、苛酷なることなく、貪欲なることなく、動揺して煩悩に悩(なや)まされることなく、万物に対して平等である。ー動じない修行者について問う人があれば、その美点をわたくしは説くであろう。

スッタニパータ 武器を執ること951のご法話

951 「これはわがものである」また「これは他人のものである」 というような思いが何も存在しない人、ーかれは(このような)〈わがものという観念〉が存しないから、「われになし」といって悲しむことがない。

 

 

人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げ分別するような思惟すなわち「これはわがものである」また「これは他人のものである」 というような思いが何も存在しない人、ーかれは人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、わがものという観念が存しないから、「われになし」といって悲しむことがない。これら感情的な意識は人間的思考の運動(快⇔不快)に基づいて立ち上がるのである。修行者は、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)をよく制し、意識へと繋がる流れをよく観察し、それらを制して世の中を遍歴し、修行するのである。

スッタニパータ 武器を執ること950のご法話

950 名称と形態について、〈わがものという想い〉の全く存在しない人、また(何ものかが)ないからといって悲しむことのない人、20ーかれは実に世の中にあっても老いることがない。

 

 

名称と形態について、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、分別をやめ、わがものという想いの全く存在しない人、また何ものかがないからといって悲しむことのない人、ーかれは実に世の中にあっても老いることがない。すなわち生と死からの解脱である。

 

 

スッタニパータ 武器を執ること949のご法話

949 過去にあったもの(煩悩)を枯渇(こかつ)せしめよ。未来には汝に何ものも有らぬようにせよ。中間においても汝が何ものをも執しないならば、汝は「安らかな人」としてふるまうことであろう。

 

過去に分別した煩悩を枯渇(こかつ)せしめよ。未来には自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、汝に何ものも有らぬようにせよ。現在においても汝が自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、何ものをも執しないならば、汝は「安らかな人」としてふるまうことであろう。このように常に、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、怠ることなく修行するのである。

スッタニパータ 武器を執ること948のご法話

948 世間における諸々の欲望を超え、また克服(こくふく)しがたい執着を超えた人は、流されず、束縛されず、悲しむことなく、思いこがれることもない。

 

 

自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、世間における諸々の両極端による欲望を超え、また克服(こくふく)しがたい執着を超えた人は、運動に流されず、束縛されず、悲しむことなく、思いこがれることもない。諸々の賢者はこのようにして安穏を観たのである。

 

スッタニパータ 武器を執ること947のご法話

947 かれは智者であり、ヴェーダの達人である。かれは理法を知りおわって、依りかかることがない。かれは世間において正しくふるまい、世の中で何びとをも羨(うらや)むことがない。

 

 

かれは智者であり、修行の達人である。かれは、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制して、現象をあるがままに見、理法を知りおわって、分けることがないので、何ものかを掴むこともなく、依りかかることもない。かれは世間において正しくふるまい、世の中で何びとをも羨(うらや)むことがない。かれこそは全てを知るものである。

スッタニパータ 武器を執ること946のご法話

946 バラモンである聖者は、真実から離れることなく、陸地(安らぎ)に立っている。かれは一切を捨て去って、「安らかになった人」と呼ばれる。

 

 

修行者である聖者は、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、あるがままに見る真実から離れることなく、陸地(安らぎ)に立っている。かれは一切の人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす欲を捨て去って、「安らかになった人」と呼ばれる。この人間的思考の運動(快⇔不快)を制した目で現象を見た時にかれはまぎれもない真理を悟ることが出来るのである。

スッタニパータ 武器を執ること945のご法話

945 わたくしは、(牽引する者のことを)遁欲、ものすごい激流と呼び、吸い込む欲求と呼び、はからい、捕捉(ほそく)と呼び、超(こ)えがたい欲望の汚泥(おでい)であるともいう。

 

 

実に人間的思考の運動(快⇔不快)を制することが出来なければ、運動による遁欲、ものすごい激流と呼び、吸い込む欲求と呼び、それらを得るためにはからい、掴むために捕捉(ほそく)を呼び、超(こ)えがたい欲望の汚泥(おでい)であるともいう。修行者は、この人間的思考の運動(快⇔不快)を制することを常とし、世の中を遍歴しなければならない。

 

スッタニパータ 武器を執ること944のご法話

944 古いものを喜んではならない。また新しいものに魅惑(みわく)されてはならない。滅びゆくものを悲しんではならない。牽引(けんいん)する者〔妄執)にとらわれてはならない。

 

 

古いものを喜んではならない。また新しいものに魅惑(みわく)されてはならない。滅びゆくものを悲しんではならない。牽引(けんいん)する者〔妄執)にとらわれてはならない。これらは、人間的思考の運動(快⇔不快)による見方である。修行者は、人間的思考の運動(快⇔不快)を止めて、現象をあるがままに観察し、無常すなわち、移りかわる古いもの、新しいものを感じ、真理を見、世の中を遍歴せよ。