スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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10月

スッタニパータ 質疑応答 スッタニパータとは?

スッタニパータの事をよく知らない人も多いと思いますので、スッタニパータとは何かをお教えください。

 

スッタニパータとは、お釈迦様のことば、ブッダのことばと訳されていると思います。仏教で言うところの経集、お経を集めたものと言う意味ですが、お釈迦様自身は、仏教と言う宗教を作ったわけではありません。お釈迦様が教えたのは、この苦しみの世界から脱出する方法です。その修行方法を教えられました。スッタニパータの中では、様々な修行者が、お釈迦様へ質問をしています。それに対してお釈迦様が答えられた教えをまとめたものがスッタニパータです。ただ、すでにいろんなことを修行された方からの質問ですので、お釈迦様もわかっている部分は省かれて応えられています。そこで、省かれた部分を補ってこのホームページでは、わかりやすく解説を加えてお伝えしています。

 

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スッタニパータ 質疑応答 修行方法の説明

いつも愛読させていただいております。私もスッタニパータやテーラーワーダを参考に自己鍛錬に取り組んでいます。スッタニパータは、本よりもこのホームページの解説がわかりやすく、本で読んだだけでは気づかなかったこともわかり重宝しておりますが、スッタニパータもテーラーワーダも現代人が読むと意味が分かりにくいと思いますので、現代人が理解できるようにお釈迦様の修行方法を教えていただきたく存じます。特に何故その修行方法が必要なのかを知りたく思います。

 

 

まず、お釈迦様の修行方法の基本は、人間的思考の運動を止める事です。日本では言葉だけ伝わっていますが。止観です。テーラーワーダでは、サマタとヴィッパッサナーですね。止めると言うのは、人間的思考の運動を止める事です。観は、現象の観察。あるいは、反応の仕方の観察も意味しています。つまり、人間的思考の運動(快⇔不快)が止められないと集中できませんし、あるがままに現象の観察も出来ませんので、まずは、人間的思考の運動(快⇔不快)を止める事から教えていくわけです。この話を修行者が聞くと「ああ、なるほど」とわかるのですが、一般の人が見るといきなり難しい話でわからないとなってしまいます。

ブログでも書いた事がありますが例えば人間的思考の運動(快⇔不快)がアナログだとしたら、それを止める事でデジタルに変換できると思って下さい。ここで重要なのは、運動を止めないとデジタルに変換できないと言う事です。例えば、ラジオやテレビで周波数が合えば放送局と繋がりますが、合っていないと聞いたり見たりすることはできません。つまり人間的思考の運動が動いていると周波数が合っていない状態。止めると合った状態と言う事になります。スマホで例えるならば、人間的思考の運動(快⇔不快)が止められないとクラウドと繋がっていないスマホです。人間的思考の運動(快⇔不快)を止める事で初めてクラウドと繋がるスマホになると言う事です。例えるならば、クラウドにつながると言う事ですね。人間の脳はスマホのような末端と同じです。容量は小さい。でもクラウドに繋がればどうでしょうか?全てはそこにあります。つまり人間的思考の運動を止めると言う事は、人間が仏へ転換する第一歩と言う事なのです。限られた世界から無限の世界へ、もう扉はそこにあるのです。

 

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スッタニパータ 質疑応答 仕事との両立

お釈迦様の修行は、出家しないと実践できないのでしょうか?仕事しながらでも出来るのでしょうか?

 

例えば、自分は、忙しくて修行する時間がないとか、できないと言う人は、全く仕事をしていなくて、時間があり余っていても、修行はできないでしょう。実際に出家されて修行された方でも、何かにつけて理由をつけてできないと言う人もいます。お釈迦様の修行は、まず初めに人間的思考の運動(快⇔不快)を止める事から始まります。例えば出勤の時、ギリギリで電車に乗れなかったとします。その時に自分がどのような反応をしたのか?大半の人が不快になるのですが、その心の反応の仕方にまずは気づいて下さい。そして、反応していると気づいたらそれを止めるだけです。そうして、自分の癖をなおしてゆきます。修行をしていない人はどうでしょうか?反応をしたと言う事に気づく事も無いでしょう。このように両極端の道を歩いていた自分(反応していた自分)を中道を歩む自分(思考に気づいて止める自分)へと修正していくのです。常に自分の心をもう一つの心で見張って、両極端に動こうとする心を戻す、戻すと言う事を心がけて日々実践してください。

 

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スッタニパータ 質疑応答 修行への疑問

スッタニパータで教えてらっしゃる人間的思考の運動(快⇔不快)を止めるという教えはよくわかりますが、それは、今までの自分の生き方を否定しているように感じます。私は、常に、自分が正しいと思った道を生きてきました。お釈迦様(スッタニパータ)の修行をすると言う事は、死人のように、世捨て人のように生きろと言う事なのでしょうか?

 

 

人は常に人間的思考の運動(快⇔不快)によって分別をして生きていますので、それを否定されると確かにそのように感じられる方もいらっしゃると思います。人間的思考の運動(快⇔不快)のまま生きるとどうなるのか?それは、半分を掴んで半分を捨てると言う事です。それを繰り返すと、どんどん視野が半分になって行きます。そうやって、自分をどんどん狭い場所に追い込んでいくのです。例えば、あなたが言われるように「正しい⇔間違えている」と言う人間的思考の運動のままに生きたとしましょう。この世の中に起きる戦争は、そのような正しいと言う思考である正義の名のもとに起こっているのです。コロナ渦での自粛警察もそうですね。その思考は、外に対してもですが、自分に対しても起こります。間違えた自分が許せない。そうやって自分を追い詰めて行きます。その思考から自殺なども起こるのです。お釈迦様がスッタニパータで教えられている教えは、その偏った一方的な思考=人間的思考の運動(快⇔不快)を止めて、反対のもの(自分や周りの事)も受け入れる事によって、視野を広げて行きます。つまり自分を殺す修行ではなく、自分を活かす修行です。視野を広げる事によって、今まで、見ようとしなかった部分(自分や周りの事)が見えてきます。見えてくることによってはじめて、全体がわかるようになる。そこに気づきが生まれ、それが智慧となるのです。つまり、あなたが、正しいと思っている事だけに教えがあるのではなく、間違えていると見ようとしない部分にも教えがあります。その見ようとしない部分があなたの闇となり迷いの流転に引き込むのです。あなたが見ようとしなかった部分にも視野を広げて全てを明らめて、全ての道を照らされて修行の道を進む事で初めて前に進めるのです。

 

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スッタニパータ 質疑応答 思考の運動について

人間的思考の運動(快⇔不快)が止められないとどのようになるのでしょうか?また人間的思考の運動(快⇔不快)を止めた聖者(智慧ある人)はどのような感じ方をされるのでしょうか?

 

 

人間的思考の運動(快⇔不快)は、運動ですから、止められないと、快と不快の運動を繰り返します。ですから、快を掴んでも時間と共に不快へと変化していくわけです。その不快への変化が起こると人は苦しみます。お釈迦様はこの、人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらすところの執着が世の人々の苦しみの原因だとおっしゃっられているのです。つまり、人間的思考の運動(快⇔不快)が止められないと苦しみへ近づいて行きます。例えば、綺麗な花が咲いているとします。人は、この綺麗な花が咲いている最も綺麗な状態に人間的思考の運動(快⇔不快)によって執着をします。しかし、花は時間と共に枯れて行きます。人間的思考の運動(快⇔不快)が止められない人々は、枯れると苦しみます。聖者は、この綺麗に咲いている花の「今」の状態は「今」しかない事を知って尊さを感じるのです。この変化によって苦を生じる人々と花の変化を感じて尊さに気づく聖者この気づきの積み重ねが智慧となるのです。

 

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スッタニパータ 質疑応答 修行の進め方

スッタニパータを愛読しております。スッタニパータの修行を実践する場合にどこから手をつけていいかわかりません。修行者は、何から取り組めばよいのかお教えください

 

 

お釈迦様がスッタニパータで常におっしゃっていることは、気をつける事です。何に気をつけるのか?それは、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)に気をつける事が基本となります。ほとんどの人は、一日中この人間的思考の運動の分別を繰り返して生きています。この運動に気をつけて、日々過ごすことが修行の第一歩となります。例えば、眼で見る事の例でお話ししますと、快適なもの、不快なもの、が目に飛び込んでくるとすぐに人間的思考の運動(快⇔不快)が立ち上がります。その分けようとする自分の反応の仕方によく気をつけてその運動を止めていく事が修行の第一歩です。

 

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スッタニパータ 学生ピンギヤの質問1124の解説

1146 「ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、そのように汝もまた信仰を捨て去れ。そなたは死の領域(りょういき)の彼岸(ひがん)に至るであろう。ピンギヤよ。」

 

 

「ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが人間的思考の運動(快⇔不快)による信仰を捨て去ったように、そのように汝もまた信仰を捨て去れ。自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、あるがままに現象を観察した時に真理を視て、目の当たりに見る事によってそれが信となり、そなたは死の領域(りょういき)の彼岸(ひがん)に至るであろう。ピンギヤよ。」

 

 

明日からは、ホームページ閲覧者と直接指導しています修行者からの質疑応答を掲載する予定です。

スッタニパータ 学生ピンギヤの質問1123の解説

1122 「四方と思惟(しい)と上と下と、これらの十方の世界において、あなたに見られず聞かれず考えられずまた識(し)られないなにものもありません。どうか理法を説いてください。それをわたくしは知りたいのです、ーこの世において生と老衰とを捨て去ることを。」

 

 

1123 師(ブッダ)は答えた、「ピンギヤよ。ひとびとは妄執に陥って苦悩を生じ、老いに襲われているのを、そなたは見ているのだから、それ故に、ピンギヤよ、そなたは怠ることなくはげみ、妄執を捨てて、再び迷いの生存にもどらないようにせよ。」

 

 

師(ブッダ)は答えた、「ピンギヤよ。ひとびとは人間的思考の運動(快⇔不快)が止められず妄執に陥って苦悩を生じ、老いに襲われているのを、そなたは見ているのだから、それ故に、ピンギヤよ、そなたは怠ることなく人間的思考の運動(快⇔不快)を制することにはげみ、妄執を捨てて、再び迷いの生存にもどらないようにせよ。」

スッタニパータ 学生ピンギヤの質問1121の解説

1120 ピンギヤさんがたずねた、「わたくしは年をとったし、力もなく、容貌も衰えています。眼もはっきりしませんし、耳もよく聞こえません。わたくしが迷ったままで途中で死ぬことのないようにしてください。ーどうしたらこの世において生と老衰とを捨て去ることができるか、そのことわりを説いてください。それをわたくしは知りたいのです。」

 

 

1121 師(ブッダ)は答えた、「ピンギヤよ。物質的な形態があるが故に、人々が害(そこな)われるのを見るし、物質的な形態があるが故に、怠る人々は(病いなどに)悩まされる。ピンギヤよ。それ故に、そなたは怠ることなく、物質的形態を捨てて、再び生存状態にもどらないようにせよ。」

 

 

師(ブッダ)は答えた、「ピンギヤよ。物質的な形態にこだわってこの世(変化ある世界)に生まれ、物質的な形態があるが故に、人々が変化し害(そこな)われるのを見るし、物質的な形態があるが故に、怠る人々は変化によって病いなどに悩まされる。ピンギヤよ。それ故に、そなたは怠ることなく、人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらすこだわりによる物質的形態を捨てて、物質的形態を求めることなく再び生存状態にもどらないようにせよ。」

スッタニパータ 学生モーガラージャの質問1119の解説

1116 モーガラージャさんがたずねた、「わたくしはかつてシャカ族の方に二度おたずねしましたが、眼(まなこ)ある方(釈尊)はわたくしに説明してくださいませんでした。しかし『神仙(釈尊)は第三回目には説明してくださる』とわたくしは聞いております。

 

1117 この世の人々も、かの世の人々も、神々と、梵天(ぼんてん)の世界の者どもも、誉(ほま)れあるあなたゴーダマ(ブッダ)の見解を知ってはいません。

 

1118 このように絶妙な見者(みて)におたずねしようとしてここに来ました。どのように世間を観察する人を、死王は見ることがないのですか?」

 

1119 (ブッダが答えた)、「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空(くう)なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り超えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、〈死の王〉は見ることがない。」

 

 

ブッダが答えた「自らの人間的思考の運動(快⇔不快)につねによく気をつけ、思考の運動による自我に固執する見解(思考の運動による偏った見方)をうち破って、あるがままに観察し、世界を空(くう)=無常なりと観ぜよ。そうすれば転生の素因を離れこの苦の世界に生まれ変わることなく死を乗り超えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、死の王=転生される因は見ることがない。」