スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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08月

スッタニパータ 学生アジタの質問1035の解説

1034 アジタさんがいった、「煩悩の流れはあらゆるところに向かって流れる。その流れをせき止めるものは何ですか?その流れを防ぎまもるものは何ですか?その流れは何によって塞(ふさ)がれるのでしょうか?それを説いてください。」

 

 

1035 師は答えた、「アジタよ。世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせき止めるものは、気をつけることである。(気をつけることが)煩悩の流れを防ぎまもるものである、とわたしは説く。その流れは智慧によって塞(ふさ)がれるであろう。」

 

 

師は答えた、「アジタよ。世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせき止めるものは、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)に気をつけることである。人間的思考の運動(快⇔不快)に気をつけ制することが煩悩の流れを防ぎまもるものである、とわたしは説く。その流れは人間的思考の運動(快⇔不快)を止めて中道を守り現象を観察するところの智慧によって塞(ふさ)がれるであろう。」

スッタニパータ 学生アジタの質問1033の解説

1032 アジタさんがたずねた、「世間は何によって覆(おお)われているのですか?世間は何によって輝かないのですか?世間を汚すものは何ですか?世間の大きな恐怖は何ですか?それを説いてください。」

 

 

1033 師(ブッダ)が答えた、「アジタよ。世間は無明(むみょう)によって覆われている。世間は貪(むさぼ)りと怠惰(たいだ)のゆえに輝かない。欲心が世間の汚れである。苦悩が世間の大きな恐怖である、とわたしは説く。」

 

 

師(ブッダ)が答えた、「アジタよ。世間は人間的思考の運動(快⇔不快)にまどわされた無明(むみょう)によって覆われている。世間は人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす貪(むさぼ)りと怠惰(たいだ)のゆえに輝かない。人間的思考の運動(快⇔不快)による快を得ようとする欲心あるいは不快を排除しようとする欲心が世間の汚れである。それらが思いのままにならない苦悩が世間の大きな恐怖である、とわたしは説く。」

スッタニパータ サーリープッタ975の解説

975 修行僧は、よく気をつけて、心もすっかり解脱(げだつ)して、これらのものに対する欲望を抑制せよ。かれは適当な時に理法を正しく考察し、心を統一して、暗黒を滅ぼせ。」

 

 

修行僧は、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)によく気をつけて、心もすっかり解脱(げだつ)して、これらの人間的思考の運動がもたらす対象に対する欲望を抑制せよ。かれは適当な時に人間的思考の運動(快⇔不快)を制した中道の目で理法を正しく考察し、心を統一して、暗黒を滅ぼせ。」

スッタニパータ サーリープッタ974の解説

974 またさらに、世間には五つの塵垢(ちりあか)がある。よく気をつけて、それらを制するためにつとめよ。すなわち色かたちと音声と味と香りと触(ふ)れられるものに対する貪欲を抑制せよ。

 

 

またさらに、世間には五つの気をつけないといけない反応の仕方がある。よく気をつけて、それらを制するためにつとめよ。すなわち色かたちと音声と味と香りと触(ふ)れられるものに対する人間的思考の運動(快⇔不快)を制してそれらから来るところの貪欲を抑制せよ。

 

人はなぜ苦しむのか?

お釈迦様がスッタニパータで説かれたものそれは、人々が苦しみから脱出する方法です。

人は、物事をすぐに、好き、嫌いに分けて、好きなものを取ろうとして、嫌いなものを排除します。あるいは、自分の理想にこだわってその状態を何とか保ちたいと思うのです。しかし、この世は、無常つまり、常に変化すると言う性質がありますから、同じ状態にこだわると状態は変化しますから苦しみます。あるいは、好き⇔嫌いと言う運動も起こりますので、何かを好きだと思って掴むとそれは苦しみも同時に掴むことになります。世の中の人々の苦しみは、このようなこだわりによるものだとお釈迦様はおっしゃっているのですね。人々は、すぐに両極端に分けて好きなものに飛びつくので、そのものの性質がわからずに苦しみにも飛びついているわけです。

そこで、お釈迦様は、まず、自分の好き、嫌いと言う運動によく気をつけて、その思考を止める事を教えられました。つまり、欲しいと言う思考を止めて掴まない事。それは、苦しみを掴まない事だからです。

そして、その思考を止めた目で分別する対象をよく観察すると、その対象の性質がわかってきます。それは無常だと言う事。つまり掴んでも一時的だと言う事。それは変化し、いずれ自分のもとを離れますから、対象に執着をすることは苦しみだとわかります。これが智慧です。

更に自分の心を観察すると。ある想いが立ち上がって、時間と共に消滅することがわかります。つまり心も変化する。無常ですね。ですから、心も一時的な想いにこだわったり、同じ状態に執着をすると苦しむと言う事がわかります。

お釈迦様は世の人々が苦しみから脱出するには、まず、人間的思考の運動(好き⇔嫌い)を止める事。次にその止めた目で対象、あるいは自分の心をよく観察することで、対象の性質がわかり、自分の心の性質もわかり、何かを掴もうとせず、手放す事。それが人が苦しみから脱出する唯一の方法と教えられたのです。

スッタニパータ サーリープッタ973の解説

973 他人からことばで警告されたときには、心をおちつけて感謝せよ。ともに修行する人々に対する荒(すさ)んだ心を断て。善いことばを発せよ。その時にふさわしくないことばを発してはならない。人々をそしることを思ってはならぬ。

 

 

他人からことばで警告されたときには、人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、心をおちつけて現象を運んでくれた対象に感謝せよ。ともに修行する人々に対する思考の運動を制し荒(すさ)んだ心を断て。善いことばを発せよ。その時にふさわしくないことばを発してはならない。人々をそしることを思ってはならぬ。それらが立ち上がる時は、思考の運動によって何かを求めているからである。

スッタニパータ サーリープッタ972の解説

972 眼を下に向けて、うろつき廻ることなく、瞑想に専念して、大いにめざめておれ。心を平静にして、精神の安定をたもち、思いわずらいと欲のねがいと悔恨(かいこん)とを断ち切れ。

 

 

小さな生き物を害さないよように眼を下に向けて、自らの思考の運動を止めて寂静を保ち、運動がもたらす何かを求めてうろつき廻ることなく、中道によってもたらされる智慧と繋がる瞑想に専念して、大いにめざめておれ。運動を制し心を平静にして、運動によって乱れることなく精神の安定をたもち、運動から来るところの思いわずらいと欲のねがいと悔恨(かいこん)とを断ち切れ。

スッタニパータ サーリープッタ971の解説

971 適当な時に食物と衣服とを得て、ここで(少量に)満足するために、(衣食の)量を知れ。かれは衣食に関しては恣(ほしい)ままならず、慎(つつ)しんで村を歩み、罵(ののし)られてもあらあらしいことばを発してははならない。人々をそしることを想ってはならぬ。

 

 

適当な時に食物と衣服とを得て、常に自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制することに努め、ここで少量に満足するために、衣食の量を知れ。思考の運動を制することによって、かれは衣食に関しては恣(ほしい)ままならず、慎(つつ)しんで村を歩み、罵(ののし)られても心は動揺することなく、あらあらしいことばを発してははならない。思考の運動から感情への流れを断ち人々をそしることを想ってはならぬ。

スッタニパータ サーリープッタ970の解説

970 すなわち『わたしは何を食べようか』『わたしはどこで食べようか』『(昨夜は)わたしは眠りづらかった』『今夜はわたしはどこで寝ようか』ー家を捨て道を学ぶ人は、これら(四つの)憂いに導く思慮を抑制せよ。

 

 

すなわち修行者は、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)から来るところの思考である快を求めた『わたしは何を食べようか』『わたしはどこで食べようか』また不快を感じ『(昨夜は)わたしは眠りづらかった』快を求めて『今夜はわたしはどこで寝ようか』ー家を捨て道を学ぶ人は、これら四つの憂いすなわち思考がもたらす運動に導く思慮を抑制せよ。

スッタニパータ サーリープッタ969の解説

969 智慧をまず第一に重んじて、善を喜び、それらの危難にうち勝て。奥まった土地に臥す不快に堪(た)えよ。次の四つの憂うべきことに堪えよ。

 

 

自らの人間的思考の運動を制したところから生まれるところの智慧をまず第一に重んじて、何かを掴もうとしない善を喜び、掴もうとするそれらの危難にうち勝て。快⇔不快を制して奥まった土地に臥す不快に堪(た)えよ。次の四つの憂うべきことに堪えよ。