スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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08月

スッタニパータ サーリープッタ968の解説

968 怒りと高慢とに支配されるな。それらの根を掘りつくしておれ。また快いものも不快なものも、両者にしっかりと、うち克(か)つべきである。

 

 

人間的思考の運動(好き⇔嫌い)を制し、それらが得られない怒りとそれらを得た高慢とに支配されるな。それらの根すなわち分別の根を掘りつくしておれ。また自らの反応の仕方を知り尽くし、快いものも不快なものも、両者をしっかりと、制して、両極端の運動をしないようにうち克(か)つべきである。

 

スッタニパータ サーリープッタ967の解説

967 盗みを行ってはならぬ。虚言を語ってはならぬ。弱いものでも強いものでも(あらゆる生きものに)慈(いつく)しみを以て接せよ。心の乱れを感ずるときにには、「悪魔の仲間」であると想って、これを除き去れ。

 

 

自らの人間的思考の運動(好き⇔嫌い)を制し、それらに引き込まれるように何かを得ようと、盗みを行ってはならぬ。何かを得るために虚言を語ってはならぬ。分別する思考から離れ弱いものでも強いものでもあらゆる生きものに慈(いつく)しみを以て接せよ。分別しようとする心の乱れを感ずるときにには、「悪魔の仲間」であると想って、これを除き去れ。

スッタニパータ サーリープッタ966の解説

966 病にかかり、餓(う)えに襲われても、また寒冷や酷暑(こくしょ)をも堪(た)え忍ぶべきである。かの〈家なき人〉は、たといそれらに襲われることがいろいろ多くても、勇気をたもって、堅固(けんご)に努力をなすべきである。

 

 

病にかかり、餓(う)えに襲われても、また寒冷や酷暑(こくしょ)をもそれらがもたらす人間的思考の運動(健康⇔病気)(食⇔飢)(暑⇔寒)を制し、堪(た)え忍ぶべきである。かの家なき人は、たといそれらに襲われることがいろいろ多くても、それらの運動を知って、寂静をたもって、堅固(けんご)に思考の運動を制する努力をなすべきである。

スッタニパータ サーリープッタ965の解説

965 異なった他の教えを奉ずる輩(ともがら)をも恐れてはならない。ーたといかれらが多くの恐ろしい危害を加えるのを見ても。ーまた善を追求して、他の諸々の危難にうち勝て。

 

 

異なった他の教えを奉ずる輩(ともがら)をも恐れてはならない。自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制するのである。ーたといかれらが多くの恐ろしい危害を加えるのを見ても心が運動することなく制し、動揺してはならない。ーまた善すなわち自らの思考の運動を制することを追求して、他の諸々の危難にうち勝て。

スッタニパータ サーリープッタ964の解説

955 サーリープッタさんが言った、ー
「わたくしは未だ見たこともなく、また誰からも聞いたこともない。ーこのようにことば美(うる)わしき師(ブッダ)、衆の主がトゥシタ天から来たりたもうたことを。

 

956 眼ある人(ブッダ)は、神々及び世人が見るように、一切の暗黒を除去して、独(ひと)りで(法)楽をうけられた。

 

957 こだわりなく、偽(いつわり)りなく、このように範たる人として来たりたもうた師・目ざめた人(ブッダ)であるあなたのもとに、これらの束縛ある多くの者どものために問おうとして、ここに参りました。

 

958 修行者は世を厭(いと)うて、人のいない座所や樹下や墓地を愛し、山間の洞窟の中におり、

 

959 または種々の座所のうちにいるのであるが、そこにはどんなに恐ろしいことがあるのだろう。ー修行者は音のしないところに座臥(ざが)していても、それらを恐れて震(ふる)えてはならないのだが。

 

960 未到(みとう)の地におもむく人にとっては、この世にどれだけの危難があることだろう。ー修行者は辺鄙(へんぴ)なところに座臥(ざが)していても、それらの危難にうち克(か)たなければならないのだが。

 

961 熱心につとめる修行者には、いかなることばを発するべきか?ここでかれのふるまう範囲はいかにあるべきか?かれのまもる戒律や誓いはどのようなものなのですか?

 

962 心を安定させ気を落ちつけてている賢者は、どのような学修を身に受けて、自分の汚れを吹き去るのですか?ー譬(たと)えば加治工(かじこう)が垢(あか)を吹き去るように。」

 

 

963 師(ブッダ)は答えた、「サーリープッタよ。世を厭(いと)い、人なきところに趺坐し、さとりを欲する人が楽しむ境地および法にしたがって実践する次第を、わたくしの知り究めたところによって、そなたに説き示そう。

 

 

964 しっかりと気をつけ分限を守る聡明な修行者は、五種の恐怖におじけてはならない。すなわち襲いかかる虻(あぶ)や蚊(か)と爬虫類(はちゅうるい)と四足獣と人間(盗賊など)に触(ふ)れることである。

 

 

しっかりと気をつけ分限を守る聡明な修行者は、五種の恐怖においても自らの思考の運動を制し、寂静でなければならない。すなわち襲いかかる虻(あぶ)や蚊(か)と爬虫類(はちゅうるい)と四足獣と人間(盗賊など)に触(ふ)れることである。そのような時にも自らの人間的思考の運動(快⇔不快)の運動を制し、両極端の反応を制するのである。

 

 

 

 

 

スッタニパータ 武器を執ること954の解説

954 聖者は自分が等しい者どものうちにいるとも言わないし、劣った者のうちにいるとも、勝れた者のうちにいるとも言わない。かれは安らいに帰し、慳(ものおし)みを離れ、取ることもなく、捨てることもない。ーと師は説かれた。

 

 

聖者は、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、自他の枠を超え、比較対象から離脱し、自分が等しい者どものうちにいるとも言わないし、劣った者のうちにいるとも、勝れた者のうちにいるとも言わない。かれは、それら分別を制し、安らいに帰し、慳(ものおし)みを離れ、何かを求めて取ることもなく、捨てることもない。ーと師は説かれた。

スッタニパータ 武器を執ること953の解説

953 動揺して煩悩に悩まされることなく、叡智(えいち)ある人にとっては、いかなる作為も存在しない。かれはあくせくした営みから離れて、至るところに安穏を見る。

 

 

 

自らの人間的思考の運動によく気づいて制し、精神が動揺して煩悩に悩まされることなく、両極端の運動から四智に変換した叡智(えいち)ある人にとっては、いかなる作為も存在しない。かれは二元のあくせくした営みから離れて、至るところに安穏を見る。

スッタニパータ 武器を執ること952の解説

952 苛酷なることなく、貪欲なることなく、動揺して煩悩に悩(なや)まされることなく、万物に対して平等である。ー動じない人について問う人があれば、その美点をわたくしは説くであろう。

 

 

自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、両極端を回避して、苛酷なることなく、貪欲なることなく、感情が動揺して煩悩に悩(なや)まされることなく、万物に対して分別することなく平等である。ー運動に対して動じない人について問う人があれば、その美点をわたくしは説くであろう。

 

スッタニパータ 武器を執ること951の解説

951 「これはわがものである」また「これは他人のものである」 というような思いが何も存在しない人、ーかれは(このような)〈わがものという観念〉が存しないから、「われになし」といって悲しむことがない。

 

 

人間的思考の運動である「自分」⇔「他人」すなわち「これはわがものである」また「これは他人のものである」 というような思いが何も存在しない人、ーかれはこのような分別しようとするわがものという観念が存しないから、何かを掴もうと「われになし」といって悲しむことがない。

 

スッタニパータ 武器を執ること950の解説

950 名称と形態につて、〈わがものという想い〉の全く存在しない人、また(何ものかが)ないからといって悲しむことのない人、20ーかれは実に世の中にあっても老いることがない。

 

 

目の前の現象である名称と形態につて、人間的思考の運動(好き⇔嫌い)によって掴む、わがものという想いの全く存在しない人、また対象としてみた掴むものすなわち何ものかがないからといって悲しむことのない人、ーかれは実に世の中にあっても老いることがない。つまり、この変化ある世界に生まれてくることはない人なのである。