スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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06月

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇895の解説

895 これらの偏見を固執して、「これのみが真理である」と宣説する人々、ーかれらはすべて他人からの非難を招く、また、それについて(一部の人々から)称讃を博するだけである。

 

 

人間的思考の運動が止められず、これらの偏見を固執して、「これのみが真理である」と宣説する人々、ーかれらはすべて他人からの非難を招く、また、それについて同じような思考の運動をしている一部の人々から称讃を博するだけである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇894の解説

894 一方的に決定した立場に立ってみずから考え量(はか)りつつ、さらにかれは世の中で論争をなすに至る。一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。

 

 

自他と言う一方的に決定した立場に立ってみずから人間的思考の運動(清浄⇔不浄)によって考え量(はか)りつつ、さらにかれは世の中で論争をなすに至る。自らの人間的思考の運動を制して一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇893の解説

893 自分の道を堅くたもって論じているが、ここに他の何びとを愚者であると見ることができようぞ。他(の説)を、「愚かである」、「不浄の教えである」、と説くならば、かれはみずから確執(かくしつ)をもたらすであろう。

 

 

自らの一方的な、自分の道を堅くたもって論じているが、ここに他の何びとを愚者であると見ることができようぞ。他の説を、「愚かである」、「不浄の教えである」、と説くならば、かれはみずから人間的思考の運動(清浄⇔不浄)よる運動によって、確執(かくしつ)をもたらすであろう。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇892の解説

892 ここ〈わが説〉にのみ清浄があると説き、他の諸々の教えには清浄がないと言う。このように一般の諸々の異説の徒はさまざまに執着し、かの自分の道を堅(かた)くたもって論ずる。

 

 

ここ、わが説にのみ清浄があると説き、他の諸々の教えには清浄がないと言う。これらは、人間的思考の運動(わが説⇔他の説)である。このように一般の諸々の異説の徒はさまざまに自らの見方に執着し、かの自分の道を堅(かた)くたもってそれらを掴み論ずる。真の修行者とは、自らの見方をも手放して安穏を観たのである。

 

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇891の解説

891 「この(わが説)以外の他の教えを宣説する人々は、清浄に背(そむ)き、〈不完全な人〉である」と、一般の諸々の異説の徒はこのようにさまざまに説く。かれらは自己の偏見に耽溺(たんでき)して汚(けが)れに染まっているからである。

 

 

このわが説以外の他の教えを宣説する人々は、清浄に背(そむ)き、〈不完全な人〉であると、一般の諸々の異説の徒はこのようにさまざまに説く。かれらはかれらが考える見方に耽溺(たんでき)して汚(けが)れに染まっているからである。修行者とは、自らが考える教えをも掴むことなくそれらを手放して、心を動かしてはならない。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇890の解説

890 もしも、他人が自分を(「愚劣だ」と)呼ぶが故に、愚劣となるのであれば、その(呼ぶ人)自身は(相手と)ともに愚劣な者となる。また、もしも自分でヴェーダの達人・賢者と称し得るのであれば、諸々の〈道の人〉のうち愚者は一人も存在しないことになる。

 

 

もしも、他人が自分を「愚劣だ」と呼ぶが故に、愚劣となるのであれば、その呼ぶ人自身は相手とともに愚劣な者となるが、修行には他人の評価は関係しない。また、もしも自分で自らの人間的思考の運動を制して、あるがままに真理を視ることによって、修行の達人・賢者と称し得るのであれば、諸々の修行者のうち愚者は一人も存在しないことになるのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇889の解説

889 かれは誤(あやま)った妄見を以てみたされ、驕慢(きょうまん)によって狂い、自分は完全なものであると思いなし、みずから心のうちでは自分を賢者だと自認している。かれのその見解は、(かれによれば)そのように完全なものだからである。

 

 

かれは人間的思考の運動による誤(あやま)った妄見を以てみたされ、自らの見方を掴み、驕慢(きょうまん)によって狂い、自分は完全なものであると思いなし、その考えに執着し、みずから心のうちでは自分を賢者だと自認している。かれのその見解は、かれによれば、そのように完全なものだからである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇888の解説

888 反対者を〈愚者〉であると見なすとともに、自己を〈真理に達した人〉であるという。かれはみずから自分を〈真理に達した人〉であると称しながら、他人を蔑視し、そのように語る。

 

 

人間的思考の運動によって、自己とその他を分別し、反対者を〈愚者〉であると見なすとともに、自己を〈真理に達した人〉であるという。かれはみずから自分を〈真理に達した人〉であると称しながら、他人を蔑視し、明らかに人間的思考の運動が止められない状態で、そのように語る。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇887の解説

887 偏見や伝承の学問や戒律や誓いや思想や、これらに依存して(他の説を)蔑視(べっし)し、(自己の学説の)断定的結論に立って喜びながら、「反対者は愚人である、無能な奴だ」という。

 

 

かれらは、自らの偏見や伝承の学問や戒律や誓いや思想や、これらに依存して執着し、他の説を蔑視(べっし)し、自己の学説の断定的結論に立ってそれを掴んでは喜びながら、「反対者は愚人である、無能な奴だ」という。このような人間的思考の運動をしているのである。

 

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇885、886の解説

885 みずから真理に達した人であると自称して語る論者たちは、何故に種々異なった真理を説くのであろうか?かれらは多くの種々異なった真理を(他人から)聞いたのであるか?あるいはまたかれらは自分の思索に従っているのであろうか?

 

 

886 世の中には、多くの異なった真理が永久に存在しているのではない。ただ永久のものだと想像しているだけである。かれらは、諸々の偏見にもとづいて思索考究を行って、「(わが説は)真理である」「(他人の説は)虚妄である」と二つのことを説いているのである。

 

 

 

世の中には、多くの異なった真理が永久に存在しているのではない。ただ永久のものだと想像しているだけである。かれらは、諸々の偏見にもとづいて思索考究を行って、人間的思考の運動(真理⇔虚妄)によって「(わが説は)真理である」「(他人の説は)虚妄である」と二つのことを説いているのである。故に修行者は、常に、自らの人間的思考の運動を制して、今、目の前に展開する真理を視るのである。