903 或る人々が「最高の教えだ」と称するものを、他の人々は「下劣なものである」と称する。これらのうちで、どれが真実の説であるのか?ーかれらはすべて自分らこそ真理に達した者であると称しているのであるが。
或る人々が「最高の教えだ」と称するものを、他の人々は「下劣なものである」と称する。これらのうちで、どれが真実の説であるのか?ーかれらはすべて人間的思考の運動(優⇔劣)の反応の仕方によって自らの見方に執着をして自分らこそ真理に達した者であると称しているのである。
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903 或る人々が「最高の教えだ」と称するものを、他の人々は「下劣なものである」と称する。これらのうちで、どれが真実の説であるのか?ーかれらはすべて自分らこそ真理に達した者であると称しているのであるが。
或る人々が「最高の教えだ」と称するものを、他の人々は「下劣なものである」と称する。これらのうちで、どれが真実の説であるのか?ーかれらはすべて人間的思考の運動(優⇔劣)の反応の仕方によって自らの見方に執着をして自分らこそ真理に達した者であると称しているのである。
902 ねがい求める者には欲念がある、また、はからいのあるときには、おののきがある。この世において死も生も在しない者、ーかれは何を怖(おそ)れよう、何を欲しよう。
ねがい求める者には思い描く想いがある、また、はからいのあるときには、描いたものを壊したくない恐れによる想いがある。この世において想いを制し、死も生も在しない者、ーかれは何を怖(おそ)れよう、何を欲しよう。
まず、自分の感覚的機関すなわち、目、耳、鼻、舌、蝕、意識に集中し、どのような反応の仕方をしているのか?
を観察し、人間的思考の運動(快⇄不快)を止めます。
次に、その人間的思考の運動を止めたら、目の前に現れたものに集中して、観察します。
そうすると、現れるものが変化している事に気づきます。
その常に変化する事を知って、この世が無常である事に気づきます。
この世が無常である事を知ることによって、この世は、苦であることを知ります。
そこから、更に自らの感覚機関からの反応の仕方に集中すると、反応の仕方をも変化する事を知ります。
自らの変化を自覚して、自らが無常である事を知ります。
自らが無常であることに気づき、自らと思い込んでいる存在は、無いことに気づきますそれが、無我です。
それによって、全ての執着から、離れようとする心が生じます。それが厭離です。
その状態の魂を観察すると、本来の魂は、清らかで、汚れのない玉のような光であることがわかります。
更に集中するとその輝きは、増して行きます。そして蓮華座に手が届くようになるのです。
私たちの心は、今まで、どうだったのでしょうか?
両極端の反応すなわち中道では、無い状態の時は、その両極端に執着をし、その執着である煩悩が魂を覆い、鉄の塊のように燃えていたのです。
それが瞋であり、瞋があるという事は、貪りがあるわけです。
無常を知らない状態で、常住を貪る事で、自分を見失うそれが痴です。
私たちは、これまで、この貪瞋痴の無限ループに落とし込まれて、この苦の世界をさまよい、死んでは、また生まれ、生まれたら必ず死ぬのですから、その苦は止みません。
よく、修行をぼちぼち始めますと言う言葉も耳にします。
本当にそれで良いのでしょうか?
私は、以前、自らの周りの人々が苦しんでいることが辛くて、非常に苦しみました。
何故周りの人々は、こんなにも苦しむのか?苦しむ姿は、見たくない。それが苦しい。
一見どんなに幸せそうに見える人でも、話してみると、やはり苦しんでいるではないですか?
でも、それは、当然だったのです。この世界は、苦の世界なのですから。
それに気づいて、この世界から、少しでも多くの人を助けたいと思った。
そのためには、自らが、知ってもらうしかないのです。
この縁を最後の仏縁だと思って、どうか知ってください。
この世界も残り少ないと感じて、今生で、光のように輝くのです。
901 あるいはぞっとする苦行にもとづき、あるいは見たこと、学んだこと、思索したことにもとづき、声を高くして清浄を賛美するが、妄執を離れていないので、移りかわる種々なる生存のうちにある。
あるいは自らの偏った見方であるぞっとする苦行にもとづき、あるいは見たこと、学んだこと、思索し分別たことにもとづき、声を高くして清浄を賛美するが、人間的思考の運動(清浄⇔不浄)による妄執を離れていないので、その想いによる移りかわる種々なる生存のうちにある。
900 一切の戒律や誓いをも捨て、(世間の)罪過(ざいか)あり或いは罪過なきこの(宗教的)行為をも捨て、「清浄である」とか「不浄である」とかいってねがい求めることもなく、それらにとらわれずに行え。ー安らぎを固執することもなく。
一切の戒律や誓いへのこだわりも捨て、世間の罪過(ざいか)あり或いは罪過なきこの人間的思考の運動(罪過あり⇔なし)の反応の仕方による宗教的行為をも捨て、「清浄である」とか「不浄である」とかいって両極端のねがいを求めることもなく、それらの人間的思考の運動にとらわれずに行え。ー安らぎにも執着することもなく。
899 もしもかれが戒律や制戒を破ったならば、かれは〈戒律や制戒の〉つとめにそむいて、おそれおののく。(それのみならず、)かれは「こうしてのみ清浄が得られる」ととなえて望み求めている。たとえば隊商からはぐれた(商人が隊商をもとめ)、家から旅立った(旅人が家をもとめる)ようなものである。
もしもかれが戒律や制戒を破ったならば、かれは戒律や制戒のつとめにそむいて、おそれおののく。すなわち戒律や制戒によって苦が生じるのである。それのみならず、かれは「こうしてのみ清浄が得られる」ととなえて望み求めている。たとえば隊商からはぐれた商人が隊商をもとめ見つからなければ不安になり、見つかれば安心するという人間的思考の運動(安心⇔不安)であり、家から旅立った旅人が不安になり、家をもとめて見つかれば安心するようなものである。このような心の運動と同じであり戒律を守れば安心し、破れば不安になるのである。それを知って聖者はその両極端を制して中道を歩み安穏を観たのである。
898 戒律を最上のものと仰いでいる人々は、「制戒によって清浄が得られる」と説き、制戒を受けている。「われらはこの教えで学びましょう。そうすれば清浄が得られるでしょう」といって、〈真理に達した者〉と称する人々は、流転する迷いの生存に誘(ひ)き込まれている。
戒律を最上のものと仰いでいる人々は、「制戒によって清浄が得られる」と説き、制戒を受けている。「われらはこの教えで学びましょう。そうすれば清浄が得られるでしょう」といって、制戒に執着しながら真理に達した者と称する人々は、その人間的思考の運動(制戒を守る⇔守らない)と言う流転する迷いの生存に誘(ひ)き込まれている。
897 すべて凡俗の徒のいだく、これらの世俗的見解に、智者は近づくことがない。かれは、見たり聞いたりしたことがらについて「これだ」と認め知ることがないから、こだわりがない。かれはそもそもどんなこだわりに赴(おもむく)くのであろうか?
すべて凡俗の徒のいだく、これらの世俗的な人間的思考の運動(優⇔劣)による見解に、智者は近づくことがない。かれは、見たり聞いたりしたことがらについて「これだ」と認め知るすなわち自分の考えに執着することがないから、こだわりがない。かれはそもそもどんなこだわりに赴(おもむく)くのであろうか?こだわることは執着である。自らの考えにこだわり、他(不快)を排除しようとする。同等の意見が快なのである知者はこの快⇔不快の運動は苦であることを知って自らの運動を制し安穏を観たのである。
896 (たとい称讃を得たとしても)それは僅かなものであって、平安を得ることはできない。論争の結果は(称讃と非難との)二つだけである、とわたくしは説く。この道理を見ても、汝らは、無論争の境地を安穏(あんのん)であると観じて、論争をしてはならない。
たとい称讃を得たとしてもそれは僅かなものであって、平安を得ることはできない。論争の結果は称讃と非難という人間的思考の運動である二つだけである、とわたくしは説く。この道理を見ても、汝らは、人間的思考の運動(称賛⇔非難)を制した無論争の境地を安穏(あんのん)であると観じて、論争をしてはならない。
895 これらの偏見を固執して、「これのみが真理である」と宣説する人々、ーかれらはすべて他人からの非難を招く、また、それについて(一部の人々から)称讃を博するだけである。
これらの人間的思考の運動(優⇔劣)による偏見を固執して、「これのみが真理である」と宣説する人々、ーかれらはすべて他人からの非難を招く、また、それについて一部の同じような見方をする人々から称讃を博するだけである。このように運動にもとづいた見方に執着をすると、ある時は称賛され、ある時は非難されるという運動を招くのである。それを知って聖者はその運動による反応の仕方によく気をつけ、その運動から出たところに智慧を視たのである。