スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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04月

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇899の解説

899 もしもかれが戒律や制戒を破ったならば、かれは〈戒律や制戒の〉つとめにそむいて、おそれおののく。(それのみならず、)かれは「こうしてのみ清浄が得られる」ととなえて望み求めている。たとえば隊商からはぐれた(商人が隊商をもとめ)、家から旅立った(旅人が家をもとめる)ようなものである。

 

 

もしもかれが戒律や制戒を破ったならば、かれは戒律や制戒のつとめにそむいて、不安な気持ちが立ち上がり、おそれおののく。それのみならず、かれは「こうしてのみ清浄が得られる」ととなえて望み求めて安心するのである。たとえば隊商からはぐれた商人が不安になり隊商をもとめ、家から旅立った旅人が家をもとめて見つけたときは安心するようなものである。かれらは、このように人間的思考の運動である「安心」⇔「不安」の運動を繰り返し、煩悩の荒波をつくってゆく。この二元の運動が煩悩の荒波である。修行者は、この両極端に偏った運動を制して、荒波を渡り終わり遂には、彼の岸へ到達し安穏を観たのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇898の解説

898 戒律を最上のものと仰いでいる人々は、「制戒によって清浄が得られる」と説き、制戒を受けている。「われらはこの教えで学びましょう。そうすれば清浄が得られるでしょう」といって、〈真理に達した者〉と称する人々は、流転する迷いの生存に誘(ひ)き込まれている。

 

 

 

戒律を最上のものと仰いでいる人々すなわち人間的思考の運動により戒律を仰ぐ人々は、戒律を守ることによって「安心」し戒律を守れなかったときは、「不安」になる。これは人間的思考による安心⇔不安の運動である。かれらは「制戒によって清浄が得られる」と説き、制戒を受けている。「われらはこの教えで学びましょう。そうすれば清浄が得られるでしょう」といって、真理に達した者と称する人間的思考の運動を繰り返す人々は、流転する迷いの生存に誘(ひ)き込まれている。それを知って修行者は、この絶妙に立ち上がる人間的思考の運動をも制して、遂には、ニルヴァーナへ至るのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇897の解説

897 すべて凡俗の徒のいだく、これらの世俗的見解に、智者は近づくことがない。かれは、見たり聞いたりしたことがらについて「これだ」と認め知ることがないから、こだわりがない。かれはそもそもどんなこだわりに赴(おもむく)くのであろうか?

 

 

人間は、新しい発見に心が動き運動をする。すなわち「これだ」と思うのである。その瞬間心が快へ大きく動く、それは人間的思考の運動であるから、かならず反対へ振り子のごとく動くのである「違う」である。この「これだ」⇔「違う」の運動をする。すべての凡俗の徒は、この快⇔不快の運動にもとづいてそれぞれの見解をいだき執着をする。智者は、この運動を止めるものであるから、その運動に近づくことはない。かれは、見たり聞いたりしたことを両極端すなわち快⇔不快に分けることがないので、「これだ」と思い入れることはないから、こだわりがない。すなわち執着をしない。かれはすべてのことがらについての人間的思考の運動を制して、寂静の境地に至っているのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇896の解説

896 (たとい称讃を得たとしても)それは僅かなものであって、平安を得ることはできない。論争の結果は(称讃と非難との)二つだけである、とわたくしは説く。この道理を見ても、汝らは、無論争の境地を安穏(あんのん)であると観じて、論争をしてはならない。

 

 

 

たとえ称賛を得たとしても、それは人間的思考の運動による喜びであって、平安を得ることは出来ない。それは運動をするので、称賛と同等の非難を受けるのである。この道理を見ても、汝らは、無論争の境地すなわち人間的思考の喜びを求めない境地が安穏(あんのん)であると観じて、論争をしてはならない。聖者は、人間的思考の運動を離れて安穏を観たのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇895の解説

895 これらの偏見を固執して、「これのみが真理である」と宣説する人々、ーかれらはすべて他人からの非難を招く、また、それについて(一部の人々から)称讃を博するだけである。

 

 

自らの見方にこだわって、「これのみが真理である」と宣説する人々、ーかれらはすべて違う見方をする他人からの難を招く、また、それについて一部の同じような見方をする人から称賛を受けるだけである。こだわることは、人間的思考であると知って執着をしてはならない。また修行者は、人間的思考の運動である称賛⇔非難と言う運動によく気をつけ回避せよ。称賛を喜んではならない。その人間的思考の喜びを捨て、荒波を渡り終えるのだ。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇894の解説

894 一方的に決定した立場に立ってみずから考え量(はか)りつつ、さらにかれは世の中で論争をなすに至る。一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。

 

 

 

人間的思考の運動をする人間は、一方的な自らの見方にもとづいて、自らの正当性をその一方的な見方にもとづいて論争に及ぶ。一切の「こうでないといけない」というこだわりを捨てたならば、人は、世の中で確執を起こすことはない。そのこだわりが苦なのである。そのこだわりとこだわりがぶつかり合って確執を産む。こだわりを捨てたとき、かれらは、ニルヴァーナへ至りお互いに高め合う存在になるのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇893の解説

893 自分の道を堅くたもって論じているが、ここに他の何びとを愚者であると見ることができようぞ。他(の説)を、「愚かである」、「不浄の教えである」、と説くならば、かれはみずから確執(かくしつ)をもたらすであろう。

 

 

 

自らの見方に堅く執着をし、他の見方を愚者であると決めつけ、「愚かである」、「不浄の教えである」、と説くならば、この世は自らが放ったことが返ってくるのだから、かれもまた、「愚かである」、「不浄の教えである」と言われることになる。聖者は、様々な見方が出来る。他の見方は、このような見方であるからこのように表現していることを知る。同じことを観ていたとしても、見方によって様々な表現がある。全てを知る聖者は、他と争わず、押しつけず、中道を歩み遂には、煩悩の荒波を渡り終わって安穏を観たのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇892の解説

892 ここ〈わが説〉にのみ清浄があると説き、他の諸々の教えには清浄がないと言う。このように一般の諸々の異説の徒はさまざまに執着し、かの自分の道を堅(かた)くたもって論ずる。

 

 

 

人間的思考の運動が止まっていない状態では、このような思考の運動をすると知れ。この運動をしている人間は、その説が事実であったとしても、人間的思考の運動なのである。わが説にのみ清浄があると説き、他の諸々の教えには清浄がないと言う思考の運動をする。このように一般の諸々の異説の徒はさまざまな自らの考えに執着し、かの自分の道を堅(かた)くたもって論ずる。自らの考えに執着をすることも人間的思考であり、他を排除しようとする思考もまた人間的思考なのである。それを知って修行者は、自らの運動を止めることに常に気をつけ、荒波を立ててなはならない。他を排除したところで、清浄が得られるわけではない。また、自らの考えを押しつけたところで清浄が得られるわけではない。その思考の運動から離れて、中道を歩むもの、彼こそは彼の岸へ到達する人なのである。

お釈迦様のことばを伝えると言うこと

こんにちは、スッタニパータ管理者のsuttanipatacomです。

今日は、このスッタニパータ(ブッダのことば)を伝える意義についてお話しします。

「ブッダのことば」を出来るだけ多くの方にお伝えしたいと言うことは、皆さん感じていると思いますが、このホームページにご縁が出来たと言うことは、前世で皆さんが、このお釈迦様のことばを誰かに伝えたからです。この世の中の理法では、自分が放ったことが自分に返ってくるわけですから、自分が知り得たことを伝えると言うことは、また必ず自分にも伝えられます。そして、お釈迦様にふれあうと、この無常の世で苦しんでいる人を助けたいと言う気持ちもわき上がってきます。そう言う四無量心で、ここで知った情報を自分にご縁がある人にも教えてあげましょう。自分が伝えることが難しければ、このサイトを活用して伝えましょう。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇890,891の解説

890 もしも、他人が自分を(「愚劣だ」と)呼ぶが故に、愚劣となるのであれば、その(呼ぶ人)自身は(相手と)ともに愚劣な者となる。また、もしも自分でヴェーダの達人・賢者と称し得るのであれば、諸々の〈道の人〉のうち愚者は一人も存在しないことになる。

 

 
891 「この(わが説)以外の他の教えを宣説する人々は、清浄に背(そむ)き、〈不完全な人〉である」と、一般の諸々の異説の徒はこのようにさまざまに説く。かれらは自己の偏見に耽溺(たんでき)して汚(けが)れに染まっているからである。
 

 

890、891の解説

もしも、他人が自分を愚劣だと呼ぶが故に、愚劣となるのであれば、その呼ぶ人自身は相手とともに人間的思考の運動をしているので修行未完成な者となる。また、もしも自らの智慧でヴェーダの達人・賢者と称し得るのであれば、諸々の修行者のうち愚者は一人も存在しないことになる。このわが説以外の他の教えを宣説する人々は、清浄に背(そむ)き、不完全な人であると、一般の諸々の異説の徒はこのようにさまざまに説く。かれらは自己の偏った見方に耽溺して煩悩の汚(けが)れに染まっているからである。

 

 

 

 

人間的思考の分ける心は、修行の場においても発生する。それは、自らと同じ偏った見方の人々が好きであり、違う見方の人は嫌いであると言う思考である。また、自らが考えた思想を自分で見ては、素晴らしいと心が運動している。この様々な修行においても巧みに人間的思考は立ち上がるのである。そして、知らず知らずのうちに迷いの流転に巻き込まれていく。教えに対しても、「これだ」と思う心が人間的思考であり、他の教えをは、排除しようとする心も人間的思考なのだ。そして、ことば巧みに他者を批判する。そう言う癖がついているのである。聖者とは、この両極端の運動を制する者であり、喜ぶものではない。そして、他を活かすものであり排除するものでもない。そう知って、自らの心を静かに見つめよ、その心が中道に帰したときに道は開けるのである。