スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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2023年

スッタニパータ 老い808の解説

808 「何の誰それ」という名で呼ばれ、かつては見られ、また聞かれた人でも、死んでしまえば、ただ名が残って伝えられるだけである。

 

 

「何の誰それ」という名で呼ばれ、かつては見られ、また聞かれた人でも、死んでしまえば、ただ名が残って伝えられるだけである。この世界を中道の眼で見るとき、それは、生起と消滅と言う現象に過ぎないのである。すなわち何の誰それが生起し、何の誰それが消滅した。単にそういう事なのである。

 

スッタニパータ 老い807の解説

807 夢の中で会った人でも、目がさめたならば、もはやかれを見ることができない。それと同じく、愛した人でも死んでこの世を去ったならば、もはや再び見ることができない。

 

 

夢の中で会った人でも、目がさめたならば、もはやかれを見ることができない。それと同じく、愛した人でも死んでこの世を去ったならば、もはや再び見ることができない。このように自らの人間的思考の運動を制し、真理を観よ。

スッタニパータ 老い806の解説

806 人が「これはがわがものである」と考える物、ーそれは(その人の)死によって失われる。われに従う人は、賢明にこの理(ことわり)を知って、わがものという観念に屈してははらない。

 

 

人が「これはがわがものである」と考える物、ーそれはその人の死によって失われる。われに従う人は、賢明にこの理(ことわり)を知って、人間的思考の運動(取⇔捨)を制し、わがものという観念に屈してははらない。

スッタニパータ 老い805の解説

805 人々は「わがものである」と執着した物のために悲しむ。(自己の)所有しているものは常住ではないからである。この世のものはただ変滅するものである、と見て、在家にとどまってはならない。

 

 

人々は「わがものである」と執着した物のために悲しむ。この無常の世では、自己の所有しているものは常住ではないからである。この世のものはただ変滅するものである、と見て、在家=「人間的思考の運動(快⇔不快)の領域」にとどまってはならない。

スッタニパータ 老い804の解説

804 ああ短いかな、人の生命よ。百歳に達せずして死す。たといそれよりも長く生きたとしても。また老衰のために死ぬ。

 

ああ短いかな、人の生命よ。百歳に達せずして死す。たといそれよりも長く生きたとしても。また老衰のために死ぬ。この世は無常である。生まれてきた生命は、必ず死を迎える。このことを知った修行者は、この無常の世に愛着を持ってはならない。

 

 

スッタニパータ 最上についての八つの詩句803の解説

803 かれらは、妄想分別をなすことなく、(いずれか一つの偏見を)特に重んずるということもない。かれらは、諸々の協議のいずれかをも受け入れることもない。バラモンは戒律や道徳によって導かれることもない。このような人は、彼岸に達して、もはや還(かえ)ってこない。

 

 

かれらは、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、妄想分別をなすことなく、分別から解放されているが故に、いずれか一つの偏見を特に重んずるということもない。かれらは、諸々の協議のいずれかをも受け入れることもない。修行者は戒律や道徳によって導かれることもない。自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、中道による真理を観るもの。このような人は、彼岸に達して、もはや還(かえ)ってこない。

 

スッタニパータ 最上についての八つの詩句802の解説

802 かれはこの世において、見たこと、学んだこと、あるいは思索したことに関して、微塵(みじん)ほどの妄想(もうそう)をも構(かま)えていない。いかなる偏見をも執することのないそのバラモンを、この世においてどうして妄想分別させることができるであろうか?

 

 

かれはこの世において、見たこと、学んだこと、あるいは思索したことに関して、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、微塵(みじん)ほどの妄想(もうそう)=「何かを掴み取ろうとする想い」をも構(かま)えていない。いかなる偏見をも執することのないその修行者を、この世においてどうして妄想分別させることができるであろうか?

スッタニパータ 最上についての八つの詩句801の解説

801 かれはここで、両極端に対し、種々の生存に対し、この世についても、来世についても、願うことがない。諸々の事物に関して断定を下して得た固執の住居(すまい)は、かれには何も存在しない。

 

 

かれはここで、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、両極端に対し、種々の生存に対し、この世についても、来世についても、願うことがない。諸々の事物に関して断定を下して得た固執の住居(すまい)=「これだと言って掴むような想い」は、かれには何も存在しない。このように安穏を観たのである。

スッタニパータ 最上についての八つの詩句800の解説

800 かれは、すでに得た(見解)〔先入見〕を捨て去って執着することなく、学識に関しても特に依拠することをしない。人々は(種々異なった見解に)分かれているが、かれは実に党派に盲従(分別なく人の言うがままに従うこと)せずいかなる見解もをそのまま信ずることはない。

 

かれは、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、すでに得た(見解)〔先入見〕を捨て去って執着することなく、学識に関しても特に依拠することをしない。人々は種々異なった見解を掴んで分かれているが、かれは実に党派に盲従(分別なく人の言うがままに従うこと)せず、いかなる見解もをそのまま信ずることはない。このように常に自らの人間的思考の運動(快⇔不快)によく気をつけて遍歴せよ。

 

スッタニパータ 最上についての八つの詩句799の解説

799 智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において偏見をかまえてはならない。自分を他人と「等しい」と示すことなく、他人よりも「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない。

 

 

修行において智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、両極端である偏見をかまえてはならない。自分を他人との反応の仕方によく気をつけ「等しい」と示すことなく、他人よりも「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない。このように修行者は中道を保つものである。