スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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08月

スッタニパータ パスーラ830の解説

830 心の高ぶりというものは、かれの害(そこな)われる場所である。しかるにかれは慢心・増上慢心(ぞうじょうまんしん)の言をなす。このことわりを見て、論争してはならない。諸々の達成せる人々は、「それによって清浄が達成される」とは説かないからである。

 

 

心の高ぶりというものは、かれの害(そこな)われる場所である。しかるにかれは人間的思考の運動(快⇔不快)が求めるものを得ては慢心・増上慢心(ぞうじょうまんしん)の言をなす。このことわりを見て、論争してはならない。諸々の達成せる人々は、「人間的思考の運動(快⇔不快)が動いた状態では清浄が達成される」とは説かないからである。それらを止めてこそ、あるがままの真理を観る事ができるからである。

スッタニパータ パスーラ829の解説

829 あるいはまた集会の中で議論を述べて、それについて称賛されると、心の中に期待したような利益を得て、かれはそのために喜んで、心が高ぶる。

 

 

あるいはまた集会の中で議論を述べて、それについて称賛されると、心の中に運動によって期待したような利益を得て、かれはそのために喜んで、心が高ぶる。このように運動によって心は動揺し、あるがままの真理をみる事はできないのである。

スッタニパータ パスーラ828の解説

828 これらの論争が諸々の修行者の間に起ると、これらの人々には得意と失意とがある。ひとはこれを見て論争をやめるべきである。称賛を得ること以外には他に、なんの役にも立たないからである。

 

 

 

これらの論争が諸々の修行者の間に起ると、これらの人々には人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす得意と失意とがある。ひとはこれを見て論争をやめるべきである。運動が立ち上がって称賛を得ること以外には他に、なんの役にも立たないからである。故に修行者は自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止めて、それらを手放して、真理を観たのである。

スッタニパータ パスーラ827の解説

827 諸々の審判者がかれの緒論に対し「汝の議論は敗北した。論破された」というと、論争に敗北した者は嘆き悲しみ、「かれはわたしを打ち負かした」といって悲泣(ひきゅう)する。

 

 

 

諸々の人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げた審判者が、かれの緒論に対し「汝の議論は敗北した。論破された」というと、論争に敗北した者は嘆き悲しみ、「かれはわたしを打ち負かした」といって悲泣(ひきゅう)する。このように運動によってかれらの感情は動揺するのである。このように動揺すると、真理を見る事はできないのである。

 

 

スッタニパータ パスーラ826の解説

826 集会の中で論争に参加した者は、称賛されようと欲して、おずおずしている。そうして敗北してはうちしおれ、(論敵の)あらさがしをしているのに、(他人から)論難されると、怒る。

 

 

 

集会の中で論争に参加した者は、自らの人間的思考の運動(称賛⇔誹謗)を立ち上げては、称賛されようと欲して、おずおずしている。そうして敗北してはうちしおれ、論敵のあらさがしをしているのに、他人から論難されると、怒る。まさに、運動を止める(中道)と言う修行から遠く離れたところにかれらはいるのである。

スッタニパータ パスーラ825の解説

825 かれらは論議を欲し、集会に突入し、相互に他人を〈愚者である〉と烙印(らくいん)し、他人(師など)をかさに着て、論争を交(かわ)す。ーみずから真理に達した者であると称しながら、自分が称賛されるようにと望んで。

 

 

 

かれらは論議を欲し、集会に突入し、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止められず、相互に他人を愚者であると烙印(らくいん)し、他人(師など)をかさに着て、論争を交(かわ)す。ーみずから真理に達した者であると称しながら、人間的思考の運動(称賛⇔誹謗)による自分が称賛されるようにと望んで。

スッタニパータ パスーラ824の解説

824 かれらは「ここにのみ清らかさがある」と言い張って、他の諸々の教えは清らかでないと説く。「自分が依拠しているもののみ善である」と説きながら、それぞれ別々の真理に固執(こしゅう)している。

 

 

かれらは人間的思考の運動(快⇔不快)の運動によって「ここにのみ清らかさがある」と言い張って、他の諸々の教えは清らかでないと両極端に説く。「自分が快とみる依拠しているもののみ善である」と説きながら、それぞれ別々の真理に固執(こしゅう)している。それは、両極端がもたらす運動によるものだとは気づかすに。

スッタニパータ ティッサ・メッテイヤ823の解説

823 聖者は諸々の欲望を顧(かえり)みることなく、それを離れて修行し、激流を渡りおわっているので、諸々の欲望に束縛(そくばく)されている人々はかれを羨(うらや)むのである。」ー

 

 

聖者は諸々の欲望を顧(かえり)みることなく、それを離れて自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止めた観察によって修行し、激流を渡りおわって真理を見ているので、諸々の欲望に束縛(そくばく)されている人々はかれを羨(うらや)むのである。」ー

 

スッタニパータ ティッサ・メッテイヤ822の解説

822 (俗事から)離れて独り居ることを学べ。これは諸々の聖者にとって最上のことがらである。(しかし)これだけで『自分が最上の者だ』と考えてはならない。ーかれは安らぎに近づいているのだが。

 

 

 

思考の運動を追い求めるような俗事から離れて独り居ることを学べ。これは諸々の聖者にとって最上のことがらである。しかしこれだけで『自分が最上の者だ』と考えてはならない。ーかれは安らぎに近づいているのだが。自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止めた上で、気づきによる智慧を積み重ねる事である。

スッタニパータ ティッサ・メッテイヤ821の解説

821 聖者はこの世で前後にこの災いのあることを知り、独りでいる修行を堅(かた)くまもれ。淫欲の交わりに耽ってはならない。

 

 

 

聖者はこの世で前後にこの人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす災い=運動のあることを知り、人間的思考の運動(快⇔不快)を止め、独りでいる修行を堅(かた)くまもれ。両極端を求めて、淫欲の交わりに耽ってはならない。