785 諸々の事物に関する固執(はこれこれのものであると)確かに知って、自己の見解に対する執着を超越することは、容易ではない。故に人はそれらの(偏執の)住居(すまい)のうちにあって、ものごとを斥(しりぞ)け、またこれを執(と)る。
人の見解と言うものは、それぞれの反応の仕方すなわち人それぞれの人間的思考の運動(正⇔誤)によって立ち上がるのであるから、自らのこだわりが人間的思考の運動によるものであると見極めて自らのこだわりである執着を乗り越える事は容易ではない。世の人々は、それぞれの人間的思考の運動である分別によって排除し、あるいは掴むことを繰り返して生活しているのである。
コメントを残す