スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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01月

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句795の解説

795 (真の)バラモンは、(煩悩の)範囲をのり超えている。かれが何ものかを知りあるいは見ても、執着することがない。かれは欲を貪ることなく、また離欲を貪ることもない。かれは(この世ではこれが最上のものである)と固執することもない。

 

 

 

真の修行者は、人間的思考が運動によって作り出す煩悩の範囲をのり超えている。かれが何ものかを知りあるいは見ても、人間的思考の動きを静止しているので執着することがない。かれは人間的思考による欲を貪ることなく、また離欲(強く欲を離れたいという欲)を貪ることもない。かれはこの世ではこれが最上のものであるとこだわるることもない。修行者が、気をつけねばならぬこと、それは、人間的思考の運動すなわち快⇔不快の運動をしないことは勿論のこと、欲を捨てることに固執すなわちこだわらないこと、こだわりも人間的思考なのである。たとえ、修行方法がわかったとしても、人間的思考の高揚⇔沈滞の運動をしてはならない。全ての人間的思考の運動を制したときに、安らぎに至るのである。

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句794の解説

794 かれらははからいをなすことなく、(何物かを)特に重んずることもなく、「これこそ究極の清らかなことだ」と語ることもない。結ばれた執着のきずなをすて去って、世間の何ものについても願望を起こすことがない。

 

 

かれらは、何かを求めて、はからいをなすことなく、また、何かを求めて何物かを特に重んずることもなく、人間的思考の高揚により「これこそ究極の清らかなことだ」と語ることもない。自らが作った分別による結ばれた執着のきずなをも捨て去って、世間の何ものについても人間的思考の運動にもとづいた願望を起こすことがない。人は、常に欲しい欲しいと想っているので、何かを手に入れるために、あれこれと、はからいをする。そして快⇔不快にもとづた判断により重んずるものを決める。そして、最も自分が望むものをこれだと考えるのである。そうして、自らを雁字搦めにするのである。見よ、かれが自らが作りだした執着によって、縛られている様を。それを知って修行者は、執着は苦である事を認識し、自らの人間的思考の運動を制して荒波を渡り終えよ。

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句793の解説

793 かれは一切の事物について、見たり学んだり思索したことを制し、支配している。このように観じ、覆われることなしにふるまう人を、この世でどうして妄想分別させることができようか。

 

 

かれは一切の事物について、見たり学んだり思索したことに対する人間的思考の運動を制し、コントロールしている。このように観じ、煩悩に覆われることなしにふるまう人を、この世でどうして妄想分別させることができようか。かれは、常に自らの反応に気をつけているので分ける事をしないのである。かれは、この世をのり超え、彼の世をも制する。そして智慧を獲得し、遂には、解脱した人となったのである。

 

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句792の解説

792 みずから誓戒(せいかい)をたもつ人は、想いに耽(ふけ)って、種々雑多なことをしようとする。しかし智慧ゆたかな人は、ヴェーダによって知り、心理を理解して、種々雑多なことをしようとしない。

 

 

 

人間的思考(快⇔不快)の想いにより、その想いを叶えるために誓戒(せいかい)をたもつ人は、想いに耽(ふけ)って、種々雑多なことをしようとする。すなわち、これをやれば、自分が望んだ事が叶うだろうと想って。しかし、智慧ゆたかな人は、人間的思考を止めて、智慧を獲得することによって知り、世の中の全てを理解して知るので、種々雑多なことをしようとしない。人間的思考の想いがある時は、そこには、運動がある。ああしい。こおうしたいである。その想いが叶えば快であるし、叶わなければ不快である。このような運動をしているものだと知れ。人間的思考の想いを叶えるために修行するのではない。聖者は、その運動を静止するものである。修行者もその人間的思考の想い、あるいは運動を静止して智慧を獲得するのだ。

 

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句791の解説

791 前の(師など)を捨てて後の(師など)にたより、煩悩の動揺に従っている人々は、執着をのり超えることがない。かれらは、とらえては、また捨てる。猿が枝をとらえて、また放つようなものである。

 

 

 

前の師などを捨てて後の師などにたより、人間的思考(正⇔誤)の運動によって煩悩の動揺に従っている人々は、執着をのり超えることがない。かれらは、運動をしているので、ある時はとらえて、ある時はまた捨てる。猿が枝をとらえて、また放つようなものである。人は、自らが作り出す煩悩の激流に溺れ掛かっている。溺れかかっているので常に何かに頼りたい、しがみつきたいという心理が働く。そして師などに頼っては、離れ、また次の師を追い求めるのである。人間的思考の運動をしているので、ある時は、感動し、ある時は幻滅するような現象が起きる。そして、また次の師を求めてさまようのである。修行者は、運動を静止せよ。その運動こそが、苦の根源なのである。他人があなたの運動に気をつける事はできぬ。何かに頼ることをやめて、自らが、自らの運動に気をつけてその二元の運動を静止して、荒波を渡るのである。

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句790の解説

790(真の)バラモンは、(正しい道の)ほかには、見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想のうちのどれによっても清らかになるとは説かない。かれは禍福に汚されることなく、自我を捨て、この世において(禍福の因を)つくることがない。

 

 

 

真の修行者は、人間的思考の運動すなわち快⇔不快の運動を止めること以外には、見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想のうちのどれによっても清らかになるとは説かない。かれは、人間的思考の運動が作り出す禍福(幸、不幸)の反復運動に惑わされることなく、人間的思考であるこだわりを捨てて、この世において煩悩の激流すなわち、幸、不幸が交互に現われるような原因を作ることがない。人生は荒波である。なぜか?幸、不幸が交互に現われてくるからである。なぜ現われるのか?幸、不幸の運動をしているからである。なぜそのような運動をしているのか?快、不快に物事を分けるからである。それを知って、かの聖者は、その分ける反応の仕方に注意し、自らの運動を止めて遂には、激流をのり超えたのである。

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句788、789の解説

788 「最上で無病の、清らかな人をわたくしは見る。人が全く清らかになるのは見解による」と、このように考えることを最上であると知って、清らかなことを観ずる人は、(見解を最上の境地に達し得る)智慧であると理解する。

 

 

789 もしも人が見解によって清らかになり得るのであるならば、あるいはまた人が智識によって苦しみを捨て得るのであるならば、それは煩悩にとらわれている人が(正しい道以外の)他の方法によっても清められることになるであろう。このように語る人を「偏見ある人」と呼ぶ。

 

 

 

「最上で無病の、清らかな人をわたくしは見る。人が全く清らかになるのは見解による」と、このように考えることを最上であると偏った見方による自らの快を追求して、清らかなことを観ずる人は、自らの快にもとづいた考え方を最上の境地に達し得る智慧であると思い込む。もしも、人が人間的思考である二元の運動(快⇔不快)による快を追求して清らかになるのであれば、あるいは、また人が人から聞いた知識だけによって苦しみを捨て去ることができるのであれば、それは、人間的思考の運動を止めていない煩悩にとらわれている人が、人間的思考の運動を静止する以外の方法によっても清められることになるであろう。このように語る人は、偏った思考であり、人間的思考の人であると呼ぶ。人は、自らの二元に分ける思考により理想と思った状態が、清らかだと勘違いをしているのである。それらの人々は人間的思考の運動をしているので、一時的に、自らの理想の境地を得られたとしても、それは運動しているので必ず逆の現象が目の前に現われるのである。そうして、禍福の運動をし、また生まれて来る。すなわちかれには苦しみがつきまとう。それを知って修行者は、自らの人間的思考の運動に注視し、それを止め遂には安穏を観たのである。

スッタニパータ 悪意についての八つの詩句787の解説

787 諸々の事物に関してたより近づく人々は、あれこれの論議(誹り、噂さ)を受ける。(偏見や執着に)たより近づくことのない人を、どの言いがかりによって、どのように呼び得るであろうか?かれは執(しゅう)することもなく、捨てることもない。かれはこの世にありながら一切の偏見を掃い去っているのである。

 

 

この世の中に存在する諸々の事物に対して両極端の思考すなわち快⇔不快に運動し分ける思考で近づく人々は、誹りや噂を受ける。人々にはかれの欲望が見え隠れするからである。二元の思考を止め偏った見方をせず、欲望のない人をどのような言いがかりによって噂ができようか?かれは両極端に分ける事がないので、その欲によって欲しがることもなく、嫌悪によって排除することもない。かれは、この煩悩が渦巻く無常の世にありながら、一切の偏った見方を祓い去っているのである。かれは、分ける事がないので、人々はかれを警戒しない。運動を静止した人間にはもはや禍福が襲いかかることもなく、安穏に満ちている。かれは常に満たされ、その心は寂静である。

スッタニパータ 悪意についての八つの詩句786の解説

786 邪悪を掃(はら)い除いた人は、世の中のどこにいっても、さまざまな生存に対してあらかじめいだいた偏見が存在しない。邪悪を掃(はら)い除いた人は、いつわりと驕慢(きょうまん)と捨て去っているが、どうして(輪廻に)赴(おもむ)くであろうか?かれはもはやたより近づくものがないのである。

 

 

 

人間的思考すなわち快⇔不快の運動を静止した人は、世の中に存在する生きもの、人々に対して両極端に分ける事がないので、自らが分けて見る偏った見方は存在しない。人間的思考を静止した人は、両極端に分けて執着をすることもないので、それを得るために偽ることもないし、何かを得たからと言って心が高ぶる事もない。そのような人間がどうしてこの無常の世に執着をして再び生まれて来ることがあろうか?かれは、もはや何かを求めて近づくものがないのである。それを知って、修行者は、自らの快、不快に分ける二元の運動に日々気をつけて、その運動を静止し、生と死とをのり超えよ。

 

 

 

スッタニパータ 悪意についての八つの詩句785の解説

785 諸々の事物に関する固執(はこれこれのものであると)確かに知って、自己の見解に対する執着を超越することは、容易ではない。故に人はそれらの(偏執の)住居(すまい)のうちにあって、ものごとを斥(しりぞ)け、またこれを執(と)る。

 

 

 

諸々の事物に関する執着は、このような運動によって生じていると確かに知って、自らの偏った見方に対する執着を超越することは容易ではない。故に人は、人間的思考の運動によって、物事を二元に分け、好き嫌いに分別をし、嫌いなものを排除し、また、好きなものを取る。実に人間は、このような、人間的思考の運動をしていると知れ。自らの人間的思考の運動に気をつけない人々は、自らが作り出すこの快⇔不快の運動によって禍福を作りだしその激流に溺れる。聖者は、それを知って、自らの運動に気をつけそれを制し、遂には安穏を観たのである。