784 汚れた見解をあらかじめ設(もう)け、つくりなし、偏重(へんちょう)して自分のうちのみ勝(すぐ)れた実りがあると見る人は、ゆらぐものにたよる平安に執着しているのである。
自らの偏った見方にもとづいて想像し、自分のみ、すぐれた実りがあると見る人は、運動をするものにたよる人間的思考が作りだした平安に執着しているのである。人間的思考による平安とは何か?平安⇔不安と言う運動をする平安である。その平安は運動をするので、長続きはしない。時間と共に不安に変化する平安である。自らが信じる平安に溺れ激流に飲み込まれていくのである。聖者は、自らが勝れ周りが劣っているという思考はない。そのような人間的思考の運動をしない者それが聖者である。それゆえに聖者は、自らを誇ることもなく、相手をけなすこともなく、全てのものを包み込む平等な境地に住み煩悩の激流を渡り終わった者である。
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