スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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スッタニパータ解説

スッタニパータ 洞窟についての八つの詩句775の解説

775 だから人はここにおいて学ぶべきである。世間で「不正」であると知られているどんなことであろうとも、そのために不正を行ってはならない。「ひとの命は短いものだ」と賢者たちは説いているのだ。

 

 

だから人はここにおいて学ぶべきである。世間で「不正」であると知られているどんなことであろうとも、人間的思考の運動(快⇔不快)による快を得るために不正を行ってはならない。「ひとの命は短いものだ」と賢者たちは説いているのだ。

 

スッタニパータ 洞窟についての八つの詩句774の解説

774 かれらは欲望を貪り、熱中し、溺(おぼ)れて、吝嗇(りんしょく)(物惜しみ、ケチ)で不正になずんでいるが、(死時には)苦しみにおそわれて悲観する、ー「ここで死んでから、われらはどうなるのだろうか」と。

 

 

かれらは人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げては、欲望を貪り、熱中し、溺(おぼ)れて、吝嗇(りんしょく)(物惜しみ、ケチ)で不正になずんでいるが、死時には全てを失い苦しみにおそわれて悲観する、ー「ここで死んでから、われらはどうなるのだろうか」と。繰り返される運動の波に溺れていくのである。

スッタニパータ 洞窟についての八つの詩句773の解説

773 欲求にもとづいて生存の快楽にとらわれている人々は、解脱しがたい。他人が解脱させてくれるのではないからである。かれらは未来をも過去をも顧慮(こりょ)しながら、これらの(目の前の)欲望または過去の欲望を貪(むさぼ)る。

 

 

自らの人間的思考の運動(快⇔不快)が止められず、欲求にもとづいて生存の快楽にとらわれている人々は、解脱しがたい。他人が解脱させてくれるのではないからである。かれらは未来をも過去をも顧慮(こりょ)しながら、人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げては、目の前の欲望または過去の欲望を妄想しては、貪(むさぼ)り求める。

 

スッタニパータ 洞窟についての八つの詩句772の解説

772 窟(いわや)(身体)のうちにとどまり、執着し。多くの(煩悩)に覆(おお)われ、迷妄(めいもう)のうちに沈没している人、ーこのような人は、実に(遠ざかり離れること)(厭離)(おんり)から遠く隔(へだ)たっている。実に世の中にありながら欲望を捨て去ることは、容易ではないからである。

 

 

窟(いわや)(身体)のうちにとどまり、執着し。多くの(煩悩)に覆(おお)われ、迷妄(めいもう)のうちに沈没している人、ーこのような人は、実に人間的思考の運動(快⇔不快)から遠ざかり離れることすなわち厭離(おんり)から遠く隔(へだ)たっている。実に世の中にありながら欲望を捨て去ることは、容易ではないからである。

スッタニパータ 欲望771の解説

771 それ故に、人は常によく気をつけていて、諸々の欲望を回避せよ。船のたまり水を汲み出すように、それらの欲望を捨て去って、激しい流れを渡り、彼岸に到達せよ。

 

 

それ故に、人は常に自らの人間的思考の運動(快⇔不快)によく気をつけて、諸々の欲望を回避せよ。常に見張って、船のたまり水を汲み出すように、それらの欲望を捨て去って、激しく迫りくる欲望の流れを渡り、彼岸に到達せよ。

スッタニパータ欲望769の解説

769 ひとが、田畑、宅地、黄金、牛馬、奴婢(ぬひ)、僱人(やといにん)、婦女、親族、その他いろいろの欲望を貪り求めると、

 

770 無力のように見えるもの(諸々の煩悩)がかれにうち勝ち危い災難がかれをふみにじる。それ故に苦しみがかれにつき従う。あたかも壊(やぶ)れた船に水が浸入するように。

 

 

ひとが、田畑、宅地、黄金、牛馬、奴婢(ぬひ)、僱人(やといにん)、婦女、親族、その他いろいろの欲望を貪り求める=無常の世で常住を求め掴もうとするならば、無力のように見えるもの(諸々の煩悩)がかれにうち勝ち危い災難=無常により手放さないといけない苦悩がかれをふみにじる。それ故に苦しみがかれにつき従う。あたかも壊(やぶ)れた船に水が浸入するように。故に修行者は怠ることなく自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、観察によって無常を知り何ものをも掴まないようにせよ。

スッタニパータ欲望768の解説

768 足で蛇の頭を踏まないようにするのと同様に、よく気をつけて諸々の欲望を回避する人は、この世で執着をのり超える。

 

足で蛇の頭を踏まないようにするのと同様に、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)によく気をつけて諸々の欲望を回避する人は、この世で執着をのり超える。

 

スッタニパータ欲望767の解説

767 欲望をかなえたいと望み貪欲(とんよく)の生じた人が、もしも欲望をはたすことができなくなるならば、かれは、矢に射られたかのように、悩み苦しむ。

 

 

欲望をかなえたいと望み貪欲(とんよく)の生じた人が、もしも欲望をはたすことができなくなるならば、かれは、矢に射られたかのように、悩み苦しむ。故に修行者は自らの人間的思考の運動(快⇔不快)によく気をつけ、何ものをも掴まないならば、苦しみを回避できるのである。

スッタニパータ欲望766の解説

766 欲望をかなえたいと望んでいる人が、もしもうまくいくならば、かれは実に人間の欲するものを得て、心に喜ぶ。

 

 

欲望をかなえたいと望んでいる人=人間的思考の運動(快⇔不快)の快を掴もうとする人が、もしもうまくいくならば、かれは実に人間の欲するものを得て、心に喜ぶ。この運動によって快を掴むならばこれは振り子の運動であるから必ず正反対の苦しみをも掴むことになるのである。故に修行者は怠ることなく自らの人間的思考の運動(快⇔不快)によく気をつけ、何ものをも掴むことなく苦しみを回避せよ。

八正道(正念)の解説

一瞬一刻に常に注意を払い、油断せず心を保つ。
人間的思考が立ち上がらないように常に注意を払う(よく気をつける)
わが身において身というものをこまかく観察する。熱心によく気をつけ、心をこめて観察し、それによって世間の貪りと憂いとを調伏して住する。あるいはまた、この存在において存在というものをこまかく観察する。熱心によく気をつけ、心をこめて観察し、それによって世間の貪りと憂いとを調伏して住するこれを名づけて正念と言う。

 

人間と言うものは、人間的思考の運動(好き⇔嫌い)が直ぐに立ち上がるという癖がある。立ち上げては、好き嫌いに分けては、自分の好むものしか思わないものである。故に修行者は、自らの想いに常に注意を払い、よく気をつけ想いを中道に保つのである。この中道による念の中立を保ちつつ観察をする。それによって気づきを得、智慧を確立し、解脱へと向かう。これこそが正念なのである。