スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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スッタニパータ解説

スッタニパータ マーガンディヤ846の解説

846 ヴェーダの達人は、見解についても、思想についても、慢心に至ることがない。かれの本性はそのようなものではないからである。かれは宗教的行為によっても導かれないし、また伝統的な学問によっても導かれない。かれは執着の巣窟に導きいれられることがない。

 

 

 

修行の達人は、見解についても、思想についても、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、慢心に至ることがない。かれの本性はそのようなものではないからである。かれは宗教的行為によってもそれらを掴むことがないので、導かれないし、また伝統的な学問によっても導かれない。かれは、あらゆる人間的思考の運動(快⇔不快)を見極め、執着の巣窟に導きいれられることがない。

 

スッタニパータ マーガンディヤ845の解説

845 竜(修行完成者)は諸々の(偏見)を離れて世間を遍歴するのであるから、それらに固執して論争してはならない。たとえば汚れから生(は)える、茎に棘(とげ)のある蓮(はす)が、水にも泥にも汚されないように、そのように聖者は平安を説く者であって、貪(むさぼ)ることなく、欲望にも世間にも汚されることがない。

 

 

竜(修行完成者)は自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、諸々の両極端による偏見を離れて世間を遍歴するのであるから、それらを掴み固執して論争してはならない。たとえば汚れから生(は)える、茎に棘(とげ)のある蓮(はす)が、水にも泥にも汚されないように、聖者は平安を説く者であって、、両極端を貪(むさぼ)ることなく、欲望にも世間にも汚されることがない。そのように中道を歩むのである。

 

スッタニパータ マーガンディヤ844の解説

844 家を捨てて、住所を定めずにさまよい、村の中で親交を結ぶことのない聖者は、諸々の欲望を離れ、未来に望みをかけることなく、人々に対して異論を立てて談論をしてはならない。

 

 

全てを手放し、住所に捉われることなく、村の中で何かを求めて親交を結ぶことのない聖者は、諸々の人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす欲望を離れ、未来に望みをかけ掴むことなく、人々に対して異論を立てて談論をしてはならない。それらのこだわりを捨て去るのである。

スッタニパータ マーガンディヤ843の解説

843 そのバラモンはどうして『(わが説は)真実である』と論ずるであろうか。またかれは『(汝の説は)虚偽(きょぎ)である』といって誰と論争するであろうか?『等しい』とか『等しくない』とかいうことのなくなった人は、誰に論争を挑(いど)むであろうか。

 

 

 

その人間的思考の運動(優⇔劣)を立ち上げた修行者はどうして『わが説は真実である』と論ずるであろうか。またかれは『(汝の説は)虚偽(きょぎ)である』といって誰と論争するであろうか?自らの人間的思考の運動(優⇔劣)を制して、『等しい』とか『等しくない』とかいうことのなくなった人は、誰に論争を挑(いど)むであろうか。思考の運動を制したかれは、論争から離脱して、中道を歩みあるがままの真理を観たのである。

スッタニパータ マーガンディヤ842の解説

842 『等しい』とか『すぐれている』とか、あるいは『劣(おと)っている』とか考える人、ーかれはその思いによって論争するであろう。しかしそれらの三種に関して動揺しない人、ーかれには『等しい』とか、『すぐれている』とか、(あるいは『劣っている』とか)いう思いは存在しない。

 

 

 

自らの人間的思考の運動(優⇔劣)を立ち上げて『等しい』とか『すぐれている』とか、あるいは『劣(おと)っている』とか考える人、ーかれはその思いの運動によって論争するであろう。しかしそれらの三種に関して動揺しない人、すなわち人間的思考の運動(優⇔劣)を止められる人ーかれには『等しい』とか、『すぐれている』とか、(あるいは『劣っている』とか)いう思いは存在しない。

スッタニパータ マーガンディヤ841の解説

840 マーガンディアが言った、「もしも、『教義によっても、学問によっても、知識によっても、戒律や道徳によっても清らかになることができない』と説き、また『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができない』と説くのであれば、それはばかばかしい教えである、とわたくしは考えます。教義によって清らかになることができる、と或る人々は考えます。」

 

 

841 師は答えた、「マーガンディアよ。あなたは(自分の)教義にもとづいて尋(たず)ね求めるものだから、執着したことがらについて迷妄(めいもう)に陥(おちい)ったのです。あなたはこの(内心の平安)について微(かす)かな想いさえもいだいていない。だから、あなたは(わたくしの説を)『ばかばかしい』と見なすのです。

 

 

師は答えた、「マーガンディアよ。あなたは自分の人間的思考の運動(快⇔不快)による教義にもとづいて尋(たず)ね求めるものだから、両極端に執着したことがらについて迷妄(めいもう)に陥(おちい)ったのです。自らの人間的思考の運動(快⇔不快)が止められないあなたはこの内心の平安について微(かす)かな想いさえもいだいていない。だから、あなたはわたくしの説を『ばかばかしい』と見なすのです。

スッタニパータ マーガンディヤ839の解説

838 マーガンディアがいった、「聖者さま。あなたは考えて構成された偏見の定説を固執することなしに、〈内心の安らぎ〉ということをお説きになりますが、そのことわりを諸々の賢人はどのように説いておられるのでしょうか?」

 

 

839 師は答えた、「マーガンディアよ。『教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、わたくしは説かない。『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』、とも説かない。それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である)」

 

 

師は答えた、「マーガンディアよ。人間的思考の運動(快⇔不快)による分別を立ち上げた状態で『教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、わたくしは説かない。あるいは人間的思考の運動(快⇔不快)による分別を立ち上げた状態で『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』、とも説かない。それらの思考の運動を捨て去って、両極端に固執することなく、こだわることなく、中道を歩み、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。中道に基づいた観察これが内心の平安である」

スッタニパータ マーガンディヤ837の解説

836 (マーガンディヤいった)、「もしもあなたが、多くの王者が求めた女、このような宝、が欲しくないならば、あなたはどのような見解を、どのような戒律・道徳・生活法を、またどうような生存状態に生まれかわることを説くのですか?」

 

 

837 師は答えた、「マーガンディヤよ。『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。諸々の事物に対する執着を執着であると確かに知って、諸々の偏見における(過誤(かご)を)見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。」

 

 

師は答えた、「マーガンディヤよ。人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げて『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、観察によって、諸々の事物に対する執着を執着であると確かに知って、諸々の偏見(思考の運動による)における過誤(かご)を見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。」

スッタニパータ  マーガンディヤ836の解説

836 (マーガンディヤいった)、「もしもあなたが、多くの王者が求めた女、このような宝、が欲しくないならば、あなたはどのような見解を、どのような戒律・道徳・生活法を、またどうような生存状態に生まれかわることを説くのですか?」

 

 

837 師は答えた、「マーガンディヤよ。『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。諸々の事物に対する執着を執着であると確かに知って、諸々の偏見における(過誤(かご)を)見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。」

 

 

師は答えた、「マーガンディヤよ。人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げて『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、あるがままに観て、諸々の事物に対する執着を執着であると確かに知って、諸々の偏見における過誤(かご)を見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎ(真理)をわたくしは見た。」

スッタニパータ マーガンディヤ835の解説

835 (師(ブッダ)は語った)、「われは(昔さとりを開こうとした時に)、愛執と嫌悪(けんお)と貪欲(とんよく)(という三人の魔女)を見ても、かれらと淫欲の交わりをしたいという欲望さえも起らなかった。糞尿に満ちたこの(女が)そもそも何ものなのだろう。わたくしはそれに足でさえも触(ふ)れたくないのだ。」

 

 

 

(師(ブッダ)は語った)、「われは(昔さとりを開こうとした時に)、愛執と嫌悪(けんお)と貪欲(とんよく)という3つの煩悩が自らに立ち上がるのを見て、かれらと淫欲の交わりをしたいという欲望さえも起らなかった。糞尿に満ちたこの(女が)そもそも何ものなのだろうと観想して、わたくしはそれに足でさえも触(ふ)れたくないのだと自らを抑制したのである。