スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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スッタニパータ 最上についての八つの詩句802の解説

802 かれはこの世において、見たこと、学んだこと、あるいは思索したことに関して、微塵(みじん)ほどの妄想(もうそう)をも構(かま)えていない。いかなる偏見をも執することのないそのバラモンを、この世においてどうして妄想分別させることができるであろうか?

 

 

かれはこの世において、見たこと、学んだこと、あるいは思索したことに関して、微塵(みじん)ほどの「妄想(もうそう)=人間的思考の運動(快⇔不快)」をも構(かま)えていない。いかなる偏見をも執することのないその修行者を、この世においてどうして妄想分別させることができるであろうか?

スッタニパータ 最上についての八つの詩句801の解説

801 かれはここで、両極端に対し、種々の生存に対し、この世についても、来世についても、願うことがない。諸々の事物に関して断定を下して得た固執の住居(すまい)は、かれには何も存在しない。

 

 

かれはここで、人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす両極端に対し、種々の生存に対し、この世についても、来世についても、何かを掴もうと願うことがない。諸々の事物に関して断定を下して「得た=掴んだ」固執の住居(すまい)は、かれには何も存在しない。かれは、全てを手放しあるがままに見るものだからである。

スッタニパータ 最上についての八つの詩句800の解説

800 かれは、すでに得た(見解)〔先入見〕を捨て去って執着することなく、学識に関しても特に依拠することをしない。人々は(種々異なった見解に)分かれているが、かれは実に党派に盲従(分別なく人の言うがままに従うこと)せずいかなる見解もをそのまま信ずることはない。

 

 

かれは、すでに得た(見解)〔先入見〕を自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制することによって、捨て去って両極端に執着することなく、学識に関しても特に依拠することをしない。人々は種々異なった見解に執着をし、それらを掴み分かれているが、かれは実に党派に盲従(分別なく人の言うがままに従うこと)せずいかなる見解もをそのまま「信ずる=掴む」ことはない。

 

スッタニパータ 最上についての八つの詩句799の解説

799 智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において偏見をかまえてはならない。自分を他人と「等しい」と示すことなく、他人よりも「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない。

 

 

智慧に関しても、戒律や道徳に関しても自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、世間において両極端の運動による偏見をかまえてはならない。自分を他人と「等しい」と示すことなく、他人よりも「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない。それらの想いは人間的思考の運動(快⇔不快)なのである。

 

スッタニパータ 最上についての八つの詩句798の解説

798 人が何か或(あ)るものに依拠(いきょ、いぞん)して「その他のものはつまらぬものである」と見なすならば、それは実にこだわりである、と(真理に達した人々)は語る。それ故に修行者は、見たこと・学んだこと・思索したこと、または戒律や道徳にこだわってはならない。

 

 

人が人間的思考の運動(快⇔不快)を立上げて、何か或(あ)るものに依拠(いきょ、いぞん)して「その他のものはつまらぬものである」と見なすならば、それは実に両極端へのこだわりである、と真理に達した人々は語る。それ故に修行者は、見たこと・学んだこと・思索したこと、または戒律や道徳に人間的思考の運動(快⇔不快)を制することに努め励み運動による見方にこだわってはならない。

 

スッタニパータ 最上についての八つの詩句797の解説

797 かれ(=世間の思想家)は、見たこと・学んだこと・戒律や道徳・思索したことについて、自分の奉じていることのうちにのみすぐれた実りを見、そこで、それだけに執着して、それ以外の他のものをすべてつまらぬものであると見なす。

 

 

かれ(=世間の思想家)は、見たこと・学んだこと・戒律や道徳・思索したことについて、人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げては、自分の奉じていることのうちにのみすぐれた実りを見、そこで、それだけに執着して、それ以外の他のものをすべてつまらぬものであると見なす。故に中道から逸脱し真理を見る事ができない。

スッタニパータ 最上についての八つの詩句796の解説

796 世間では、人は諸々の見解のうちで勝(すぐ)れているとみなす見解を「最上のもの」であると考えて、それよりも他の見解はすべて「つまらないものである」と説く。それ故にかれは諸々の論争を超えることがない。

 

 

世間では、人は諸々の見解のうちで勝(すぐ)れているとみなす見解を人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げては分別し「最上のもの」であると考えて、それよりも他の見解はすべて「つまらないものである」と説く。それ故にかれは思考の運動がもたらす諸々の論争を超えることがない。

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句795の解説

795 (真の)バラモンは、(煩悩の)範囲をのり超えている。かれが何ものかを知りあるいは見ても、執着することがない。かれは欲を貪ることなく、また離欲を貪ることもない。かれは(この世ではこれが最上のものである)と固執することもない。

 

 

真の修行者は、人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす煩悩の範囲をのり超えている。かれが何ものかを知りあるいは見ても、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制して、執着することがない。かれは欲を貪ることなく、また修行に伴う離欲を貪ることもない。かれはこの世ではこれが最上のものであると固執することもなく全てを手放しているのである。

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句794の解説

974 またさらに、世間には五つの塵垢(ちりあか)がある。よく気をつけて、それらを制するためにつとめよ。すなわち色かたちと音声と味と香りと触(ふ)れられるものに対する貪欲を抑制せよ。

 

 

またさらに、世間には五つの塵垢(ちりあか)がある。自らの人間的思考の運動(快⇔不快)によく気をつけて、それらの運動を制するためにつとめよ。すなわち色かたちと音声と味と香りと触(ふ)れられるものに対する貪欲=人間的思考の運動(快⇔不快)を抑制せよ。

 

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句793の解説

793 かれは一切の事物について、見たり学んだり思索したことを制し、支配している。このように観じ、覆われることなしにふるまう人を、この世でどうして妄想分別させることができようか。

 

 

かれは一切の事物について、見たり学んだり思索したことに対しての人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、運動を支配している。このように観じ、両極端に覆われることなしにふるまう人を、この世でどうして妄想分別させることができようか。