791 前の(師など)を捨てて後の(師など)にたより、煩悩の動揺に従っている人々は、執着をのり超えることがない。かれらは、とらえては、また捨てる。猿が枝をとらえて、また放つようなものである。
前の(師など)を捨てて後の(師など)にたより、分別がもたらす煩悩の動揺に従っている人々は、執着をのり超えることがない。かれらは、人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げて、とらえては、また捨てる。猿が枝をとらえて、また放つようなものである。
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791 前の(師など)を捨てて後の(師など)にたより、煩悩の動揺に従っている人々は、執着をのり超えることがない。かれらは、とらえては、また捨てる。猿が枝をとらえて、また放つようなものである。
前の(師など)を捨てて後の(師など)にたより、分別がもたらす煩悩の動揺に従っている人々は、執着をのり超えることがない。かれらは、人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げて、とらえては、また捨てる。猿が枝をとらえて、また放つようなものである。
790(真の)バラモンは、(正しい道の)ほかには、見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想のうちのどれによっても清らかになるとは説かない。かれは禍福に汚されることなく、自我を捨て、この世において(禍福の因を)つくることがない。
真の修行者は、人間的思考の運動(快⇔不快)を止めると言う正しい道のほかには、見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想のうちのどれによっても清らかになるとは説かない。かれは人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす運動である禍福に汚されることなく、自我を捨て、この世において運動による禍福の因をつくることがない。
789 もしも人が見解によって清らかになり得るのであるならば、あるいはまた人が智識によって苦しみを捨て得るのであるならば、それは煩悩にとらわれている人が(正しい道以外の)他の方法によっても清められることになるであろう。このように語る人を「偏見ある人」と呼ぶ。
もしも人が人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げた見解によって清らかになり得るのであるならば、あるいはまた人が智識によって苦しみを捨て得るのであるならば、それは思考の運動を止められない煩悩にとらわれている人が思考の運動を止めると言う正しい道以外の他の方法によっても清められることになるであろう。このように語る人を「偏見ある人」=「修行が進まない人」と呼ぶ。
788 「最上で無病の、清らかな人をわたくしは見る。人が全く清らかになるのは見解による」と、このように考えることを最上であると知って、清らかなことを観ずる人は、(見解を最上の境地に達し得る)智慧であると理解する。
「最上で無病の、清らかな人をわたくしは見る。人が全く清らかになるのは人間的思考の運動(快⇔不快)によって分けた見解による」と、このように考えることを最上であると知って、清らかなことを観ずる人は、人間的思考の運動(快⇔不快)が「もたらす見解を最上の境地に達し得る智慧であると誤って理解する。
787 諸々の事物に関してたより近づく人々は、あれこれの論議(誹り、噂さ)を受ける。(偏見や執着に)たより近づくことのない人を、どの言いがかりによって、どのように呼び得るであろうか?かれは執(しゅう)することもなく、捨てることもない。かれはこの世にありながら一切の偏見を掃い去っているのである。
人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす諸々の事物に関してたより近づく人々は、あれこれの論議(誹り、噂さ)を受ける。偏見や執着にたより近づくことのない人を、どの言いがかりによって、どのように呼び得るであろうか?かれは両極端に対して執(しゅう)することもなく、捨てることもない。かれはこの世にありながら自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、一切の偏見を掃い去っているのである。
786 邪悪を掃(はら)い除いた人は、世の中のどこにいっても、さまざまな生存に対してあらかじめいだいた偏見が存在しない。邪悪を掃(はら)い除いた人は、いつわりと驕慢(きょうまん)と捨て去っているが、どうして(輪廻に)赴(おもむ)くであろうか?かれはもはやたより近づくものがないのである。
自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、邪悪を掃(はら)い除いた人は、世の中のどこにいっても、思考の運動を止めているので、さまざまな生存に対してあらかじめいだいた偏見が存在しない。邪悪を掃(はら)い除いた人は、それらを掴もうとするいつわりと驕慢(きょうまん)と捨て去っているが、どうして輪廻に赴(おもむ)くであろうか?かれはもはやたより近づくものがないのである。
785 諸々の事物に関する固執(はこれこれのものであると)確かに知って、自己の見解に対する執着を超越することは、容易ではない。故に人はそれらの(偏執の)住居(すまい)のうちにあって、ものごとを斥(しりぞ)け、またこれを執(と)る。
諸々の事物に関する固執は、人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらすこれこれのものであると確かに知って、自己の見解に対する執着を超越することは、容易ではない。故に人はそれらの偏執の住居(すまい)のうち=人間的思考の運動による運動の範疇にあって、ものごとを斥(しりぞ)け、またこれを執(と)ると言うような運動をしているのである。
784 汚れた見解をあらかじめ設(もう)け、つくりなし、偏重(へんちょう)して自分のうちのみ勝(すぐ)れた実りがあると見る人は、ゆらぐものにたよる平安に執着しているのである。
人間的思考の運動(快⇔不快)にとらわれた汚れた見解をあらかじめ設(もう)け、両極端に分けては、つくりなし、偏重(へんちょう)して自分のうちのみ勝(すぐ)れた実りがあると見る人は、運動がもたらす、ゆらぐものにたよる平安に執着しているのである。
783 修行僧が平安となり、心が安静に帰して、戒律に関して「わたくしはこのようにしている」といって誇ることがないならば、世の中のどこにいても煩悩のもえ盛ることがないのであるから、かれは〈高貴な人〉である、と真理に達した人々は語る。
修行僧が自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、平安となり、心が安静に帰して、戒律に関して「わたくしはこのようにしている」といって思考の運動を立ち上げて誇ることがないならば、世の中のどこにいても煩悩のもえ盛ることがないのであるから、かれは修行が進んでいる人である、と真理に達した人々は語る。
782 人から尋ねられたのではないのに、他人に向かって、自分が戒律や道徳を守っていると言いふらす人は、自分で自分のことを言いふらすのであるから、かれは「下劣な人」である、と真理に達した人は語る。
人から尋ねられたのではないのに、他人に向かって、自分が戒律や道徳を守っていると言いふらす人は、自分で自分のことを言いふらし、褒められたいと言う人間的思考の運動(快⇔不快)が立ち上がっているのであるから、かれは修行を怠っている人である、と真理に達した人は語る。