788 「最上で無病の、清らかな人をわたくしは見る。人が全く清らかになるのは見解による」と、このように考えることを最上であると知って、清らかなことを観ずる人は、(見解を最上の境地に達し得る)智慧であると理解する。
人は、どこか素晴らしい能力を持っている他人、あるいは師を見つけては、あの人は凄い、あるいは、あの人が言う事は正しいと、頼り近づく。それらの人々は、人間的思考の運動(好き⇔嫌い)による見解によって最上の智慧がもたらせられると思い込んでいる。聖者は、人間的思考の運動(好き⇔嫌い)を止めた観察によってのみ智慧がもたらされることを知り、頼り近づくことなく、自らを追究し遂には彼の岸へと到達するのである。
コメントを残す