世俗の人々、または道の人・修行者どもがかれを非難して貪りなどの過(とが)があるというであろうが、かれは自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、自らの修行状況がわかるが故にその(非難)を特に気にかけることはない。それ故に、かれは論議されても、動揺することがない。
修行者が人からの非難などを気にかけるのは自分が良く思われたいという人間的思考の運動(良⇔悪)が立ち上がるからである。中道を目指す修行者はそのような想いにもよく気をつけ中道を常に心がけ世の中を遍歴せよ。
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世俗の人々、または道の人・修行者どもがかれを非難して貪りなどの過(とが)があるというであろうが、かれは自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、自らの修行状況がわかるが故にその(非難)を特に気にかけることはない。それ故に、かれは論議されても、動揺することがない。
修行者が人からの非難などを気にかけるのは自分が良く思われたいという人間的思考の運動(良⇔悪)が立ち上がるからである。中道を目指す修行者はそのような想いにもよく気をつけ中道を常に心がけ世の中を遍歴せよ。
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