883 或る人々が「真理である、真実である」と言うところのその(見解)をば、他の人々が「虚偽(きょぎ)である、虚妄(きょもう)である」と言う。このようにかれらは異なった両極端への想いに執見をいだいて論争する。何故に諸々の人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げたままの修行者は同一の事を語らないのであろうか?それは、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制することができないからである。
人が「これだ」と思い込んで掴んだ想いそれは人間的思考の運動(快⇔不快)である。故にその想いに執着したならば、他人とぶつかるのである。それぞれがそれぞれの想いに執着をし、衝突する。それを見て賢者は自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、想いを掴むことなく、遂には真理を見たのである。
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