聖者は諸々の人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす欲望を顧(かえり)みることなく、それ「=運動」を離れて修行し、激流を渡りおわっているので、諸々の欲望に束縛(そくばく)されている人々「=両極端を追い求めて荒波に溺れかけている人」はかれを羨(うらや)むのである。」ー
聖者というものは自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、彼の岸へと渡り終わり安らぎに帰している故に両極端の束縛から解放されているのである。世の人々を見よ。なんと人間的思考の運動(快⇔不快)に束縛されて雁字搦めである。故に修行者はその束縛から解放されるためにも自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、中道を守る修行に努めよ。
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