かつては独りで暮らしていたのに、のちに淫欲の交わりに耽る人は、中道を踏み外し両極端へと車が道からはずれたようなものである。世の人々はかれを『卑しい』と呼び、また『凡夫』と呼ぶ。
人は人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げて両極端を追い求める時、中道を保てないのであるから、真理を観る事はできない故にその状態は凡夫なのである。故に修行者は、常に自らの人間的思考の運動(快⇔不快)によく気をつけ、それらを制し、遂には安穏を観たのである。
suttanipata
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かつては独りで暮らしていたのに、のちに淫欲の交わりに耽る人は、中道を踏み外し両極端へと車が道からはずれたようなものである。世の人々はかれを『卑しい』と呼び、また『凡夫』と呼ぶ。
人は人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げて両極端を追い求める時、中道を保てないのであるから、真理を観る事はできない故にその状態は凡夫なのである。故に修行者は、常に自らの人間的思考の運動(快⇔不快)によく気をつけ、それらを制し、遂には安穏を観たのである。
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