たとえば蓮の葉の上の水滴、あるいは蓮華の上の水が汚されないように、それと同じく聖者は、見たり学んだり思索したどんなことについても、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、中道を保つことによって両極端に汚されることがない。
蓮華の上すなわちどんな水をも弾く心構えそれは常に気をつける事によって保たれる。両極端に対しての誘惑はその呼び水のように修行者を誘惑する。智慧ある修行者は、それらを常に気をつける事によって回避する。すなわち蓮の葉のようにである。もはや両極端は弾かれて聖者を侵すことはない。
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