人が人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げ、何か或(あ)るものに依拠(いきょ、いぞん)して「その他のものはつまらぬものである」と見なすならば、それは実にこだわりである、と真理に達した人々は語る。それ故に修行者は、見たこと・学んだこと・思索したこと、または戒律や道徳に対して自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、こだわってはならない。
人は人間的思考の運動を立ち上げ物事を快不快に分け、それらを掴んでは依存する。たとえそれらを掴んだとしても運動をするのでその掴んだものあるいは依存したものはいずれ失われるのである。故に修行者はそれらを掴むことなくあるいは依存することなくあるがままにとらえ、遂には真理を観たのである。
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