修行僧が自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止めて、平安=中道となり、心が安静に帰して、戒律に関して「わたくしはこのようにしている」といって誇ることがないならば、世の中のどこにいても煩悩のもえ盛ることがないのであるから、中道を歩むかれは〈高貴な人〉である、と真理に達した人々は語る。
修行者がよく陥る人間的思考の運動で、戒律を守る⇔守らないという運動がある。これは、守ると「安心」し、守れなければ「不安」となるような運動である。故に中道を目指す修行者は、自らのこのような運動にもよく気をつけ、中道を守り遂には安穏を観たのである。
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