884 真理は一つであって、第二のものは存在しない。その(真理)を知った人は、争うことがない。かれらはめいめい異なった真理をほめたたえている。それ故に諸々の〈道の人〉は同一の事を語らないのである。
それそれの修行者が思考を制してあるきっかけをもとに観る真理は一つであって、第二のものは存在しない。その真理を知った人は、争うことがない。かれらはめいめい異なったきっかけから観た真理をほめたたえている。それ故に諸々の修行者は同一の事を語らないのである。
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884 真理は一つであって、第二のものは存在しない。その(真理)を知った人は、争うことがない。かれらはめいめい異なった真理をほめたたえている。それ故に諸々の〈道の人〉は同一の事を語らないのである。
それそれの修行者が思考を制してあるきっかけをもとに観る真理は一つであって、第二のものは存在しない。その真理を知った人は、争うことがない。かれらはめいめい異なったきっかけから観た真理をほめたたえている。それ故に諸々の修行者は同一の事を語らないのである。
883 或る人々が「真理である、真実である」と言うところのその(見解)をば、他の人々が「虚偽(きょぎ)である、虚妄(きょもう)である」と言う。このようにかれらは異なった執見をいだいて論争する。何故に諸々の(道の人)は同一の事を語らないのであろうか?
或る人々が「真理である、真実である」と言うところのその(見解)をば、他の人々が「虚偽(きょぎ)である、虚妄(きょもう)である」と言う。このようにかれらは人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げては、異なった執見(執着した見方)をいだいて論争する。何故に諸々の修行者は同一の事を語らないのであろうか?
881 またもしも自分の見解によって清らかとなり、自分の見解によって、真理に達した人、聡明な人となるのであるならば、かれらのうちには知性のない者はだれもいないことになる。かれらの見解は(その点で)等しく完全であるからである。
またもしもかれらが人間的思考の運動(快⇔不快)を制した上で自分の見解によって清らかとなり、自分の見解によって、真理に達した人、聡明な人となるのであるならば、かれらのうちには知性のない者はだれもいないことになる。かれらの見解はその点で等しく完全であるからである。
880 もしも論敵の教えを承諾しない人が愚者であって、低級な者であり、智慧の劣った者であるならば、これらの人々はすべて(各自の)偏見を固執しているのであるから、かれらはすべて愚者であり、ごく智慧の劣った者であるということになる。
もしも論敵の教えを承諾しない人が愚者であって、低級な者であり、智慧の劣った者であるならば、これらの人々はすべて各自の人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げたまま偏見を固執しているのであるから、かれらはすべて愚者であり、ごく智慧の劣った者であるということになる。智慧あるものは、人間的思考の運動(快⇔不快)を制して、真理を見るものであるのだから。
879 かれらはこのように異なった執見をいだいて論争し、「論敵は愚者であって、真理に達した人ではない」と言う。これらの人々はみな「自分こそ真理に達した人である」と語っているが、これらのうちで、どの説が真実なのであろうか?
かれらはこのように異なった執見をいだいて人間的思考の運動を立ち上げたまま論争し、「論敵は愚者であって、真理に達した人ではない」と言う。これらの人々はみな「自分こそ真理に達した人である」と語っているが、これらのうちで、どの説が真実なのであろうか?人間的思考の運動を立ち上げたままでは、全体を見る事ができないが故に真理を見る事はできないのである。
878 (世の中の学者たちは)めいめいの見解に固執して、互いに異なった執見(しゅうけん)をいだいて争い、(みずから真理への)熟達者であると称して、さまざまに論ずる。ー「このように知る人は真理を知っている。これを非難する人はまだ不完全な人である」と。
世の中の学者たちはめいめいの見解に人間的思考の運動を立ち上げては固執して、互いに異なった執見(しゅうけん)をいだいて争い、みずから真理への熟達者であると称して、さまざまに論ずる。ー「このように知る人は真理を知っている。これを非難する人はまだ不完全な人である」とそれぞれが主張するが、人間的思考の運動を止められないまま真理を見る事はできないのである。
875 「われらがあなたにおたずねしたことを、あなたはわれわれに説き明かしてくださいました。われらは別のことをあなたにおたずねしましょう。どうか、それを説いてください。ーこの世における或る賢者たちは、『この状態だけが、霊(たましい)の最上の清浄の境地である』とわれらに語ります。しかしまた、それよりも以上に、『他の(清浄の境地)がある』と説く人々もいるのでしょうか?」
876 「この世において或る賢者たちは、『霊の最上の清浄の境地はこれだけのものである』と語る。さらにかれらのうちの或る人々は断滅を説き、(精神も肉体も)残りなく消滅することのうちに(最上の清浄の境地がある)と巧(たく)みに語っている。
877 かの聖者は、『これらの人間的思考の運動(正⇔誤)による偏見はこだわりがある』と知って、諸々のこだわりを熟考し、知った上で、解脱(げだつ)せる人は論争におもむかない。人間的思考の運動(正⇔誤)を制し、悟りを得た思慮ある賢者は種々なる変化的生存を受けることがない。」
873 「どのように修行した者によって、形態が消滅するのですか?楽と苦はいかにして消滅するのですか?どのように消滅するのか、その消滅するありさまを、わたくしに説いてください。わたくしはそれを知りたいものです。ーわたくしはこのように考えました。」
874 「ありのままに想う者でもなく、誤って想う者でもなく、想いなき者でもなく、想いを消滅した者でもない。ーこのように理解した者の形態は消滅する。けだしひろがりの意識は、想いにもとづいて起るからである。」
「ありのままに人間的思考の運動(快⇔不快)を立上げて、想う者でもなく、誤って人間的思考の運動(快⇔不快)を立上げて、想う者でもなく、人間的思考の運動(快⇔不快)を立上げて、想いなき者でもなく、人間的思考の運動(快⇔不快)を立上げて、想いを消滅した者でもない。ーこのように理解した者の形態は消滅する。けだしひろがりの意識は、人間的思考の運動(快⇔不快)を立上げた想いにもとづいて起るからである。」
871 「世の中で感官による接触は何にもとづいて起るのですか?また所有欲は何から起るのですか?何ものが存在しないときに、〈わがもの〉という我執が存在しないのですか?何ものが消滅したときに、感官による接触がはたらかないのですか?」
872 「名称と形態とに依って感官による接触が起る。諸々の所有欲は欲求を縁として起る。欲求がないときには、〈わがもの〉という我執も存在しない。形態が消滅したときには〈感官による接触〉ははたらかない。」
「名称と形態とに依って感官による接触が起る。諸々の所有欲は人間的思考の運動である欲求を縁として起る。運動を止めて掴もうとするような欲求がないときには、〈わがもの〉という我執も存在しない。分別の対象である形態が消滅したときには〈感官による接触〉ははたらかない。」
869 「快と不快とは何にもとづいて起るのですか?また何がないときにこれらのものが現われないのですか?また生起と消滅ということの意義と、それの起るもととなっているものを、われに語ってください。」
870 「快と不快とは、感官による接触にもとづいて起る。感官による接触が存在しないときには、これらのものも起らない。生起と消滅ということの意義と、それの起るもととなっているもの(感官による接触)を、われは汝に告げる。」
「人間的思考の運動である快と不快とは、感官による接触にもとづいて起る。感官による接触が存在しないときには、これらのものも起らない。運動のあらわれである生起と消滅ということの意義と、それの起るもととなっているもの感官による接触によって分別が発生する事を、われは汝に告げる。」