スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

suttanipata

info@suttanipata.com

07月

スッタニパータ 最上についての八つの詩句798の解説

798 人が何か或(あ)るものに依拠(いきょ、いぞん)して「その他のものはつまらぬものである」と見なすならば、それは実にこだわりである、と(真理に達した人々)は語る。それ故に修行者は、見たこと・学んだこと・思索したこと、または戒律や道徳にこだわってはならない。

 

 

人が自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げ、何か或(あ)るものに依拠(いきょ、いぞん)して「その他のものはつまらぬものである」と見なすならば、それは実にこだわり=人間的思考の運動(快⇔不快)である、と真理に達した人々は語る。それ故に修行者は、見たこと・学んだこと・思索したこと、または戒律や道徳に対して自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制することに努め、こだわってはならない。

スッタニパータ 最上についての八つの詩句797の解説

797 かれ(=世間の思想家)は、見たこと・学んだこと・戒律や道徳・思索したことについて、自分の奉じていることのうちにのみすぐれた実りを見、そこで、それだけに執着して、それ以外の他のものをすべてつまらぬものであると見なす。

 

 

世間の思想家は、見たこと・学んだこと・戒律や道徳・思索したことについて、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げ、自分の奉じていることのうちにのみすぐれた実りを見、そこで、それだけに執着して、それ以外の他のものをすべてつまらぬものであると見なす。故に真理を視る事はできないのである。

スッタニパータ 最上についての八つの詩句796の解説

796 世間では、人は諸々の見解のうちで勝(すぐ)れているとみなす見解を「最上のもの」であると考えて、それよりも他の見解はすべて「つまらないものである」と説く。それ故にかれは諸々の論争を超えることがない。

 

 

世間では、人は諸々の見解のうちで人間的思考の運動(快⇔不快)によって分別し、勝(すぐ)れているとみなす見解を「最上のもの」であると考えて、それよりも他の見解はすべて「つまらないものである」と説く。それ故にかれは自らの人間的思考の運動(快⇔不快)が止められず、諸々の論争を超えることがない。

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句795の解説

795 (真の)バラモンは、(煩悩の)範囲をのり超えている。かれが何ものかを知りあるいは見ても、執着することがない。かれは欲を貪ることなく、また離欲を貪ることもない。かれは(この世ではこれが最上のものである)と固執することもない。

 

 

 

真の修行者は、人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす煩悩の範囲をのり超えている。かれが何ものかを知りあるいは見ても、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、執着することがない。かれは人間的思考の運動(快⇔不快)による欲を貪ることなく、また自らの修行に対する離欲を貪ることもない。かれは修行方法に対しても、この世ではこれが最上のものであると固執することもない。

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句794の解説

974 またさらに、世間には五つの塵垢(ちりあか)がある。よく気をつけて、それらを制するためにつとめよ。すなわち色かたちと音声と味と香りと触(ふ)れられるものに対する貪欲を抑制せよ。

 

 

 

またさらに、世間には五つの塵垢(ちりあか)がある。よく気をつけて、それらに対する人間的思考の運動(快⇔不快)を制するために中道を保つことにつとめよ。すなわち色かたちと音声と味と香りと触(ふ)れられるものに対する人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす貪欲を抑制せよ。

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句793の解説

793 かれは一切の事物について、見たり学んだり思索したことを制し、支配している。このように観じ、覆われることなしにふるまう人を、この世でどうして妄想分別させることができようか。

 

 

かれは一切の事物について、見たり学んだり思索したことに対する反応の仕方である人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、支配している。このように観じ、思考の運動に覆われることなしにふるまう人を、この世でどうして妄想分別させることができようか。

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句792の解説

792 みずから誓戒(せいかい)をたもつ人は、想いに耽(ふけ)って、種々雑多なことをしようとする。しかし智慧ゆたかな人は、ヴェーダによって知り、真理を理解して、種々雑多なことをしようとしない。

 

 

みずから誓戒(せいかい)をたもつ人は、誓戒(せいかい)よって得られる利益に想いに耽(ふけ)って、種々雑多なことをしようとする。しかし智慧ゆたかな人は、それらの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、観察によって知り、真理を理解して、あるがままにすごし、種々雑多なことをしようとしない。

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句791の解説

791 前の(師など)を捨てて後の(師など)にたより、煩悩の動揺に従っている人々は、執着をのり超えることがない。かれらは、とらえては、また捨てる。猿が枝をとらえて、また放つようなものである。

 

 

 

自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げ、何かを掴もうと、前の師などを捨てて後の師などにたより、煩悩の動揺に従っている人々は、執着をのり超えることがない。かれらは、とらえては、また捨てる。猿が枝をとらえて、また放つようなものである。故に修行者は、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、自らの目で、真理を視るべきである。

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句790の解説

790(真の)バラモンは、(正しい道の)ほかには、見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想のうちのどれによっても清らかになるとは説かない。かれは禍福に汚されることなく、自我を捨て、この世において(禍福の因を)つくることがない。

 

 

 

真の修行者は、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制する正しい道のほかには、見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想のうちのどれによっても清らかになるとは説かない。かれは禍福に汚されることなく、自我を捨て、この世において自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、禍福の因をつくることがない。

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句789の解説

789 もしも人が見解によって清らかになり得るのであるならば、あるいはまた人が智識によって苦しみを捨て得るのであるならば、それは煩悩にとらわれている人が(正しい道以外の)他の方法によっても清められることになるであろう。このように語る人を「偏見ある人」と呼ぶ。

 

 

もしも人が自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止められない見解によって清らかになり得るのであるならば、あるいはまた人が智識によって苦しみを捨て得るのであるならば、それは自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げて、煩悩にとらわれている人が正しい道=人間的思考の運動(快⇔不快)を制する事以外の他の方法によっても清められることになるであろう。このように語る人を「偏見ある人」=人間的思考の運動(快⇔不快)が止められない人と呼ぶ。故に偏った見方では真理を見る事はできないのである。