789 もしも人が見解によって清らかになり得るのであるならば、あるいはまた人が智識によって苦しみを捨て得るのであるならば、それは煩悩にとらわれている人が(正しい道以外の)他の方法によっても清められることになるであろう。このように語る人を「偏見ある人」と呼ぶ。
もしも人が自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止められない見解によって清らかになり得るのであるならば、あるいはまた人が智識によって苦しみを捨て得るのであるならば、それは自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げて、煩悩にとらわれている人が正しい道=人間的思考の運動(快⇔不快)を制する事以外の他の方法によっても清められることになるであろう。このように語る人を「偏見ある人」=人間的思考の運動(快⇔不快)が止められない人と呼ぶ。故に偏った見方では真理を見る事はできないのである。
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