786 邪悪を掃(はら)い除いた人は、世の中のどこにいっても、さまざまな生存に対してあらかじめいだいた偏見が存在しない。邪悪を掃(はら)い除いた人は、いつわりと驕慢(きょうまん)と捨て去っているが、どうして(輪廻に)赴(おもむ)くであろうか?かれはもはやたより近づくものがないのである。
自らの人間的思考の運動(好き⇔嫌い)を制して中道を歩む修行者は、分別による偏った見方は存在しない。故にあるがままに、物事を見て、真理を知り、分別によって何かを掴もうとしないが故に頼る対象もなく、また生まれたいと言う強い想いもない。
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