人は、人間的思考の運動(快⇔不快)により快を貪り、あるいは不快を排除する。それに熱中するがあまり、不正をしてでも手に入れよう、あるいは排除しようとする貪瞋痴による痴が生じる。当然、不正をしているので、死の間際に大丈夫だろうか?という恐怖に覆われるのである。人は、死ぬと、生きているときと別の6根、すなわち目、耳、鼻、舌、身体が生じ、それは運動をするので快を得たものは、不快を生じ、不正をしたものは不正に襲われる。その運動から逃れるすべはない。ただ、ただ、生きているときに、それを行わぬことである。その道理を知って、修行者は、自らの運動によく気をつけ、善を追及して、世の中を遍歴せよ。どのように運が悪い時においても運がよい時においても正しい道を歩むならば、激流に飲み込まれることはないのである。
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