スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

suttanipata

info@suttanipata.com

04月

スッタニパータ ティッサ・メッテイヤ821の解説

821 聖者はこの世で前後にこの災いのあることを知り、独りでいる修行を堅(かた)くまもれ。淫欲の交わりに耽ってはならない。

 

 

聖者はこの世で淫欲による心の動揺には前後にこの思考の運動(快⇔不快)による災いのあることを知り、運動を離れて、独りでいる修行を堅(かた)くまもれ。世の人々は、快を貪っては、不快が、あるいは、それを得るための邪な考えが、かれに付きまとい心が混濁するのであるから、淫欲の交わりに耽ってはならない。

スッタニパータ ティッサ・メッテイヤ820の解説

820 独りでいる修行をまもっていたときには一般に賢者と認められていた人でも、もしも淫欲の交わりに耽ったならば、愚者のように悩む。

 

 

両極端を制して、独りでいる修行をまもっていたときには一般に賢者と認められていた人でも、もしも人間的思考の運動(快⇔不快)が動き出して、淫欲の交わりに耽ったならば、それらを追い求める想いによって、愚者のように悩む。

スッタニパータ ティッサ・メッテイヤ819の解説

819 そうして他人に詰(なじ)られた時には虚言に陥(おちい)る。すなわち、[自らを傷つける]刃(悪行)をつくるのである。これがかれの大きな難所である。

 

 

想いに捉われているが故に、他人に詰(なじ)られた時には、ごまかそうと虚言に陥(おちい)る。すなわち、自らを傷つける刃(悪行)をつくるのである。これがかれの大きな難所であり、ネガティブなループである。

スッタニパータ ティッサ・メッテイヤ818の解説

818 かれは諸々の(欲の)想いに囚(とら)われて、困窮者のように考えこむ。このような人は、他人からのとどろく非難の声を聞いて恥じいってしまう。

 

 

 

かれには人間的思考の運動(快⇔不快)による諸々の欲の想いに囚(とら)われて、心が動揺し、困窮者のように考えこむ。このように心が動揺する人は、他人からのとどろく非難の声を聞いて恥じいってしまう。

スッタニパータ ティッサ・メッテイヤ817の解説

817 かつてかれのもっていた名誉も名声も、すべて失われる。このことわりをも見たならば、淫欲の交わりを断つことを学べ。

 

 

かつてかれのもっていた名誉も名誉よりも、かれの思考は、両極端を追い求め、すべてが失われる。このことわりをも見たならば、自らの快⇔不快による運動を制して、淫欲の交わりを断つことを学べ。

スッタニパータ ティッサ・メッテイヤ816の解説

816 かつては独りで暮らしていたのに、のちに淫欲の交わりに耽る人は、車が道からはずれたようなものである。世の人々はかれを『卑しい』と呼び、また『凡夫』と呼ぶ。

 

 

かつては自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制して、独りで暮らしていたのに、のちに淫欲の交わりに耽る人は、車が道からはずれてわき道に落ちたようなものである。世の人々はかれを『卑しい』と呼び、また『凡夫』と呼ぶ。

スッタニパータ  ティッサ・メッテイヤ815の解説

814 ティッサ・メッテイヤさんが言った、ー「きみよ。淫欲の交わりに耽(ふけ)る者の破滅を説いてください。あなたの教えを聞いて、われらも独り離れて住むことを学びましょう。」

 

 

815 師(ブッダ)は答えた、「メッテイヤよ。淫欲の交わりに耽る者は教えを失い、邪(よこしま)な行いをする。これはかれのうちにある卑(いや)しいことがらである。

 

 

師(ブッダ)は答えた、「メッテイヤよ。淫欲の交わりに耽る者は、感覚的感受すなわち目、耳、鼻、舌、蝕、意における快⇔不快の運動を制する教えを失い、二元による邪(よこしま)な行いをする。これはかれのうちにある卑(いや)しい動物的なことがらである。

スッタニパータ 老い813の解説

813 邪悪を掃い除いた人は、見たり学んだり思索したどんなことでも特に執着して考えることがない。かれは他のものによって清らかになろうとは望まない。かれは貪らず、また嫌うこともない。

 

 

自らの人間的思考の運動を制して、邪悪を掃い除いた人は、見たり学んだり思索したどんなことでも特に執着して考えることがない。かれは自らの心を観察すること以外の他のものによって清らかになろうとは望まない。かれは、あるがままに世の中を見、貪らず、また嫌うこともない。

 

スッタニパータ 老い812の解説

812 たとえば蓮の葉の上の水滴、あるいは蓮華の上の水が汚されないように、それと同じく聖者は、見たり学んだり思索したどんなことについても、汚されることがない。

 

 

たとえば蓮の葉の上の水滴、あるいは蓮華の上の水が汚されないように、それと同じく聖者は、見たり学んだり思索したどんなことについても、自らの人間的思考の運動を制して、汚されることがない。

スッタニパータ 老い811の解説

811 聖者はなにものにもとどこおることなく、愛することもなく、憎むこともない。悲しみも慳(ものおし)みもかれを汚すことがない。譬(たと)えば(蓮(はす)の)葉の上の水が汚されないようなものである。

 

 

聖者はなにものにも人間的思考の運動を制することに、とどこおることなく、思考の運動(愛⇔憎)を制し、愛することもなく、憎むこともない。それらを掴むことも無いので、悲しみも慳(ものおし)みもかれを汚すことがない。譬(たと)えば(蓮(はす)の)葉の上の水が汚されないようなものである。そのように聖者は思考を制する者である。