スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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10月

スッタニパータ  学生ドータカの質問1064の解説

1063 「わたくしは、神々と人間との世界において何ものも所有せずにふるまうバラモンを見ます。あまねく見る方(かた)よ。わたくしはあなたを礼拝いたします。シャカ族の方(かた)よ。わたくしを諸々の疑惑から解き放ちたまえ。」

 

1064 「ドータカよ。わたくしは世間におけるいかなる疑惑者をも解脱(げだつ)させ得ないだろう。ただそなたが最上の真理を知るならば、それによって、そなたはこの煩悩(ぼんのう)の激流を渡るであろう。」

 

 

「ドータカよ。わたくしは世間におけるいかなる疑惑者すなわち自ら実践しない者をも解脱(げだつ)させ得ないだろう。ただそなたが人間的思考の運動を止めて最上の真理を知るならば、それによって、そなたはこの両極端の欲望が生み出す煩悩(ぼんのう)の激流を渡るであろう。」

スッタニパータ  学生ドータカの質問1062の解説

1061 ドータカさんがたずねた、「先生!わたくしはあなたにおたずねします。このことをわたくしに説いてください。偉大な仙人さま。わたくしはあなたのおことばを頂きたいのです。あなたのお声を聞いて、自分の安らぎ(ニルヴァーナ)を学びましょう。」

 

 

1062 師(ブッダ)が答えた、「ドータカよ。では、この世において賢明であり、よく気をつけて、熱心につとめよ。この(わたくしの口)から出る声を聞いて、自己の安らぎを学べ。」

 

 

師(ブッダ)が答えた、「ドータカよ。では、この世において理法を知り賢明であり、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)の反応の仕方によく気をつけて、熱心に制する事につとめよ。このわたくしの口から出る声を聞いて、人間的思考の運動を制し自己の安らぎを学べ。」

スッタニパータ  学生メッタグーの質問1056の解説

1056 このようにしていて、よく気をつけ、怠ることなく行う修行者は、わがものとみなして固執したものを捨て、生や老衰や憂(うれ)いや悲しみをも捨てて、この世で智者となって、苦しみを捨てるであろう。」

 

 

 

このように目の前に現れるものに対して人間的思考の運動を制していて、それらに対する反応の仕方によく気をつけ、怠ることなく中道を歩む修行者は、両極端に分けたわがものとみなして固執したものを捨て、運動によって現れる生や老衰や憂(うれ)いや悲しみをも捨てて、この世で智者となって、両極端の苦しみを捨てるであろう。」

スッタニパータ  学生メッタグーの質問1055の解説

1054 「偉大な仙人さま。わたくしはその最上の理法を受けて歓喜します。その理法を知って、よく気をつけて行い、世間の執著を乗り超えるでしょう。」

 

 

1055 師が答えた、「メッタグーよ。上と下と横と中央とにおいて、そなたが気づいてよく知っているものは何であろうと、それらに対する喜びと偏執と識別とを除き去って、変化する生存状態のうちにとどまるな。

 

 

師が答えた、「メッタグーよ。上と下と横と中央とにおいて、そなたが気づいてよく知っているものは何であろうと、それらに対する人間的思考の運動(好き⇔嫌い)による喜びと偏執と識別とを除き去って、分別による運動を制止し変化する生存状態のうちにとどまるな。

スッタニパータ  学生メッタグーの質問1053の解説

1052 「われらがあなたにおたずねしましたことを、あなたはわれらに説き明かしてくださいました。あなたに他のことをおたずねしますが、そうかそれを説いてください。どのようにしたならば、諸々の賢者は煩悩の激流、生と老衰、憂いと悲しみとを乗り超えるのですか?聖者さま。どうかそれをわたくしに説き明かしてください。あなたはこの法則をあるがままに知っておられるからです。」

 

 

1053 師が答えた、「メッタグーよ。伝承によるのではなくて、いま眼(ま)のあたり体得されるこの理法を、わたしはそなたに説(と)き明(あか)かすであろう。その理法を知って、よく気をつけて行い、世間の執著を乗り超えよ。

 

 

 

師が答えた、「メッタグーよ。伝承によるのではなくて、いま眼(ま)のあたり体得されるこの理法を、わたしはそなたに説(と)き明(あか)かすであろう。その理法であるこの世の中の法則を知って、よく自らの人間的思考の運動による反応の仕方に気をつけて行い、世間における両極端の執著を乗り超えよ。

スッタニパータ  学生メッタグーの質問1051の解説

1051 実に知ることなくして執著をつくる人は愚鈍であり、くり返し苦しみに近づく。だから、知ることであり、苦しみの生起のもとを観じた人は、再生の素因(=執著)をつくってはならない。」

 

 

 

実に自らの人間的思考の運動(快⇔不快)による反応の仕方を知ることなくして執著をつくる人は愚鈍であり、運動により、くり返し苦しみに近づく。だから、反応の仕方を知ることであり、苦しみの生起のもとをこの運動だと観じた人は、再生の素因(=両極端の反応による執著)をつくってはならない。」

スッタニパータ  学生メッタグーの質問1050の解説

1049 メッタグーさんがたずねた、「先生!あなたにおたずねします。このことをわたしに説いてください。あなたはヴェーダの達人、心を修養された方だとわたくしは考えます。世の中にある種々様々な、これらの苦しみは、そもそもどこから現われ出たのですか。」

 

 

 

1050 師(ブッダ)は答えた、「メッタグーよ。そなたは、わたしに苦しみの生起するもとを問うた。わたしは知り得たとおりに、それをそなたに説き示そう。世の中にある種々様々な苦しみは、執著(しゅうじゃく)を縁として生起する。

 

 

 

師(ブッダ)は答えた、「メッタグーよ。そなたは、わたしに苦しみの生起するもとを問うた。わたしは知り得たとおりに、それをそなたに説き示そう。世の中にある種々様々な苦しみは、人間的思考の運動(好き⇔嫌い)による両極端に対する執著(しゅうじゃく)を縁として生起する。

スッタニパータ  学生プンナカの質問1048の解説

1047 プンナカさんがいった、「もしも供犠に専念している彼らが祭祀によっても生と老衰とを乗り超えていないのでしたら、わが親愛なる友よ、では神々と人間の世界のうちで生と老衰とを乗り超えた人は誰なのですか?先生!あなたにお尋ねします。それをわたしに説いてください。」

 

 

1048 師が答えた、「プンナカよ。世の中でかれこれ(の状態)を究(きわ)め明(あか)らめ、世の中で何ものにも動揺することなく、安らぎに帰(き)し、煙なく、苦悩なく、望むことのない人、ーかれは生と老衰とを乗り超えた、ーとわたしは説く。」

 

 

 

師が答えた、「プンナカよ。世の中でかれこれのエネルギーの状態を究(きわ)め明(あか)らめ、世の中で何ものにも人間的思考の運動によって動揺することなく、寂静に帰(き)し、煙なく、苦悩なく、両極端を望むことのない人、ーかれは生と老衰とを乗り超えた、ーとわたしは説く。」

 

スッタニパータ  学生プンナカの質問1046の解説

1045 プンナカさんがいった、「先生!およそこの世で仙人や常の人々や王族やバラモンが盛んに神々に犠牲を捧げましたが、祭祀(さいし)の途において怠らなかったかれらは、生と老衰をのり超えたのでしょうか?わが親愛なる友よ。あなたにおたずねします。それをわたしに説いてください。」

 

 

1046 師は答えた、「プンナカよ。かれらは希望し、称讃し、熱望して、献供する。利得を得ることに縁(よ)って欲望を達成しようと望んでいるのである。供犠(くぎ)に専念している者どもは、この世の生存を貪(むさぼ)って止(や)まない。かれらは生や老衰をのり超えていない、とわたしは説く。」

 

 

 

師は答えた、「プンナカよ。かれらは両極端の欲望を希望し、称讃し、熱望して、献供する。供儀による利得を得ることに縁(よ)って欲望を達成しようと望んでいるのである。供犠(くぎ)に専念している者どもは、人間的思考の運動(快⇔不快)によるこの世の快を求めた生存を貪(むさぼ)って止(や)まない。かれらは、人間的思考の運動(生⇔死)による激流の最中にあり生や老衰をのり超えていない、とわたしは説く。」

 

スッタニパータ  学生プンナカの質問1044の解説

1043 プンナカさんがたずねた、「動揺することなく根本を達観せられたあなたに、おたずねしようと思って、参りました。仙人や常の人々や王族やバラモンは、何の故にこの世で盛んに神々に犠牲を捧(ささ)げたのですか?先生!あなたにおたずねします。それをわたしに説いてください。」

 

 

1044 師(ブッダ)は答えた、「プンナカよ。およそ仙人や常の人々や王族やバラモンがこの世で盛んに神々に犠牲を捧げたのは、われらの現在のこのような生存状態を希望して、老衰にこだわって、犠牲を捧げたのである。」

 

 

 

師(ブッダ)は答えた、「プンナカよ。およそ仙人や常の人々や王族やバラモンがこの世で盛んに神々に犠牲を捧げたのは、われらの現在のこのような生存状態すなわち人間的思考の運動(快⇔不快)による現状の常住を希望して、人間的思考の運動(生⇔死)の運動による老衰(老いること)にこだわって、犠牲を捧げたのである。」この無常の世にこだわりを持つこと、それは人間的思考の運動による両極端の思考である。すなわち両極端の快(良い)と思い込んでいる運動のさなかにある状態を追い求める。それは運動をするので必ず変化していき苦を生じる。変化するが故に、苦を回避しようと繰り返し犠牲を捧げるのである。