812 たとえば蓮の葉の上の水滴、あるいは蓮華の上の水が汚されないように、それと同じく聖者は、見たり学んだり思索したどんなことについても、汚されることがない。
汚されるとは、人間的思考の運動による反応の仕方をしてしまうことである。その反応の仕方をすることによって、かれに苦しみがついてまわる。まさにそれは、汚泥の如くである。その汚泥の中に咲く蓮が如く、蓮の上の水滴、あるいは蓮の上の水が汚されないように、それと同じく聖者は、この汚泥にまみれた世の中にあって、見たり学んだり思索したどんなことについても、人間的思考の運動によって分ける事をせず、中道を保って汚されることがない。
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