スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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ご法話

スッタニパータ 武器を執ること945のご法話

945 わたくしは、(牽引する者のことを)遁欲、ものすごい激流と呼び、吸い込む欲求と呼び、はからい、捕捉(ほそく)と呼び、超(こ)えがたい欲望の汚泥(おでい)であるともいう。

 

 

実に人間的思考の運動(快⇔不快)を制することが出来なければ、運動による遁欲、ものすごい激流と呼び、吸い込む欲求と呼び、それらを得るためにはからい、掴むために捕捉(ほそく)を呼び、超(こ)えがたい欲望の汚泥(おでい)であるともいう。修行者は、この人間的思考の運動(快⇔不快)を制することを常とし、世の中を遍歴しなければならない。

 

スッタニパータ 武器を執ること944のご法話

944 古いものを喜んではならない。また新しいものに魅惑(みわく)されてはならない。滅びゆくものを悲しんではならない。牽引(けんいん)する者〔妄執)にとらわれてはならない。

 

 

古いものを喜んではならない。また新しいものに魅惑(みわく)されてはならない。滅びゆくものを悲しんではならない。牽引(けんいん)する者〔妄執)にとらわれてはならない。これらは、人間的思考の運動(快⇔不快)による見方である。修行者は、人間的思考の運動(快⇔不快)を止めて、現象をあるがままに観察し、無常すなわち、移りかわる古いもの、新しいものを感じ、真理を見、世の中を遍歴せよ。

 

 

スッタニパータ 武器を執ること943のご法話

943 虚言(うそ)をつくように誘(ひ)き込まれるな。美しいすがたに愛着を起こすな。また慢心を知りつくしてなくすようにせよ。粗暴になることなく、ふるまえ。

 

 

人間的思考の運動(快⇔不快)が立ち上がり何かを得ようとする心が立ち上がり虚言(うそ)をつくように誘(ひ)き込まれるな。人間的思考の運動(美⇔醜)による見方を制し、美しいすがたに愛着を起こすな。また修行ができたとしても、慢心を知りつくしてなくすようにせよ。修行が上手くいかなくても粗暴になることなく、ふるまえ。

スッタニパータ 武器を執ること942のご法話

942 安らぎを心がける人は、眠りとものぐさとふさぎこむ心とにうち勝て。怠惰(たいだ)を宿らせてはならぬ。高慢な態度をとるな。

 

 

安らぎを心がける人は、眠りとものぐさとふさぎこむ心とにうち勝て。しっかりと目覚め、自己の人間的思考の運動(快⇔不快)に注視し、それらを制せよ、怠惰(たいだ)を宿らせてはならぬ。それができたとしても高慢な態度をとるな。それは覚醒への第一歩なのである。

スッタニパータ 武器を執ること941のご法話

941 聖者は誠実であれ。傲慢(ごうまん)でなく、詐(いつわり)りなく、悪口を言わず、怒ることなく、邪(よこし)まな貪りと慳(ものおし)みとを超(こ)えよ。

 

 

聖者は誠実であれ。傲慢(ごうまん)でなく、詐(いつわり)りなく、悪口を言わず、怒ることなく、邪(よこし)まな貪りと慳(ものおし)みとを超(こ)えよ。それらは、全て自らの人間的思考の運動(快⇔不快)によって立ち上がる。快を得れば傲慢になり、快を得るために詐(いつわり)りが生じ、快を得られなければ、悪口が生じ、あるいは怒り、快を常に求めて邪(よこし)まな貪りが生じ、快を得てはそれらを手放そうとせず物惜しみする。これら負の思考を超えて世の中を遍歴せよ。

スッタニパータ 武器を執ること940のご法話

940 そこで次に実践のしかたが順次に述べられる。ー世間における諸々の束縛(そくばく)の絆(きずな)にほだされてはならない。諸々の欲望を究(きわ)めつくして、自己の安らぎを学べ。

 

 

そこで次に実践のしかたが順次に述べられる。自らの人間的思考の運動(快⇔不快)によく気をつけて、世間における諸々の束縛(そくばく)の絆(きずな)にほだされてはならない。諸々の欲望が、どのような人間的思考の運動(快⇔不快)から起こるのかをよく見究(きわ)めつくして、自己の安らぎを学べ。

スッタニパータ 武器を執ること939のご法話

939 この(煩悩の)矢に貫かれた者は、あらゆる方角をかけめぐる。この矢を引き抜いたならば、(あちこちを)駆(か)けめぐることもなく、沈むこともない。

 

 

人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす煩悩の矢に貫かれた者は、両極端を求めて、あらゆる方角をかけめぐる。人間的思考の運動(快⇔不快)を制して、この矢を引き抜いたならば、あちこちを駆(か)けめぐることもなく、沈むこともない。

スッタニパータ 武器を執ること938のご法話

938 (生きとし生けるものは)終極においては違逆に会うのを見て、わたくしは不快になった。またわたくしはその(生けるものどもの)心の中に見がたき煩悩の矢が潜(ひそ)んでいるのを見た。

 

 

生きとし生けるものは死ぬ間際において、逆さづりに会うような苦しみに襲われる。それは、生への執着、所有する物あるいは人への執着である。それらを見て、わたくしは気の毒になった。またわたくしはその生けるものどもの心の中に見がたき人間的思考の運動(快⇔不快)による煩悩の矢が潜(ひそ)んでいるのを見た。人は、常に人間的思考の運動(快⇔不快)の運動によって両極端に分けそれらを掴んで離そうとしない。その結果が死ぬ間際に現れたのである。

 

スッタニパータ 武器を執ること937のご法話

937 世界はどこも堅実(けんじつ)ではない。どの方角でもすべて動揺している。わたくしは自分のよるべき住所を求めていたのであるが、すでに(死や苦しみなどに)とりつかれていないところを見つけなかった。

 

 

 

この人間的思考の運動(快⇔不快)によって形成された世界はどこも堅実(けんじつ)ではない。どの方角でもすべて人間的思考の運動(快⇔不快)によって動揺している。わたくしは自分のよるべき住所すなわち人間的思考の運動(快⇔不快)を止めるに適した場所を求めていたのであるが、すでに死や苦しみなどにとりつかれていないところを見つけなかった。世の人々は、運動を繰り返しているのである。

スッタニパータ 武器を執ること936のご法話

936 水の少ないところにいる魚のように、人々が慄(ふる)えているのを見て、また人々が相互に抗争しているのを見て、わたくしに恐怖が起った。

 

 

この世は無常である。人間的思考の運動(快⇔不快)にょって何かを掴もうとしたとしても、あるいは抗争によって一時的に何かを得たとしても、それは、わずかな間であるまさに水の少ないところにいる魚の如くである、その魚のように人々が慄(ふる)えているのを見て、また人々が相互に抗争しているのを見て、わたくしに恐怖が起った。人間的思考の運動(快⇔不快)によって、何も見えていないからである。