スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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スッタニパータ解説

スッタニパータ 争闘872の解説

871 「世の中で感官による接触は何にもとづいて起るのですか?また所有欲は何から起るのですか?何ものが存在しないときに、〈わがもの〉という我執が存在しないのですか?何ものが消滅したときに、感官による接触がはたらかないのですか?」

 

 

872 「名称と形態とに依って感官による接触が起る。諸々の所有欲は欲求を縁として起る。欲求がないときには、〈わがもの〉という我執も存在しない。形態が消滅したときには〈感官による接触〉ははたらかない。」

 

 

物質的な名称と形態とに依って感官による接触が起る。諸々の所有欲は、それらの接触によって快、不快と反応した欲求を縁として起る。快不快の運動を制し、欲求がないときには、わがものという我執も存在しない。時間と共に形態が消滅したときには感官による接触ははたらかない。

スッタニパータ 争闘870の解説

869 「快と不快とは何にもとづいて起るのですか?また何がないときにこれらのものが現われないのですか?また生起と消滅ということの意義と、それの起るもととなっているものを、われに語ってください。」

 

870 「快と不快とは、感官による接触にもとづいて起る。感官による接触が存在しないときには、これらのものも起らない。生起と消滅ということの意義と、それの起るもととなっているもの(感官による接触)を、われは汝に告げる。」

 

 

「快と不快とは、感官による接触にもとづいて起る。感官による接触が存在しないときには、これらのものも起らない。それらの感覚的感受を求めて、人が生まれる生起と無常によって失われる消滅ということの意義と、それの起るもととなっているもの感官による接触を、われは汝に告げる。」自らの感覚による接触によく気をつける事である。

スッタニパータ 争闘868の解説

868 怒りと虚言と疑惑、ーこれらのことがらも、(快と不快との)二つがあるときに現われる。疑惑ある人は知識の道に学べ。〈道の人〉は、知って、諸々のことがらを説いたのである。」

 

 

 

怒りと虚言と疑惑、ーこれらのことがらも、人間的思考の運動(快⇔不快)が立ち上がり快と不快との二つがあるときに現われる。人間的思考の運動(快⇔不快)によって快が掴めない場合に怒り、あるいは不快を掴んだ時に怒る。快を手放せないが故に虚言が起こり、あるいは不快を掴みたくないが故に虚言が起こる。この運動をあるがままに見ないが故に疑惑が起こるのである。疑惑ある人は知識の道に学べ。あるがままに見る道の人は、知って、諸々のことがらを説いたのである。」

スッタニパータ 争闘867の解説

866 「さて世の中で欲望は何にもとづて起るのですか?また(形而上学的(けいじじょうがくてき)な)断定は何から起るのですか?怒りと虚言と疑惑と及び(道の人)(沙門(しゃもん))の説いた諸々のことがらは、何から起るのですか?」

 

 

867 「世の中で〈快〉〈不快〉と称するものに依って、欲望が起る。諸々の物質的存在には生起と消滅とのあることを見て、世の中の人は(外的な事物にとらわれた)断定を下す。

 

 

世の中で人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす〈快〉〈不快〉と称するものに依って、欲望が起る。諸々の物質的存在には生起と消滅とのあることを見て、世の中の人は外的な事物にとらわれた断定を下しそれらを掴む。聖者は、現象をあるがままに見、その無常で空である輝きを見る。

 

 

スッタニパータ 争闘865の解説

864 世間において、愛し好むものは何にもとづいて起るのですか。また世間にはびこる貪(むさぼ)りは何にもとづいて起るのですか。また人が来世に関していだく希望とその成就(じょうじゅ)とは、何にもとづいて起るのですか?」

 

 

865 「世の中で愛し好むもの及び世の中にはびこる貪りは、欲望にもとづいて起る。また、人が来世に関していだく希望とその成就とは、それにもとづいて起る。」

 

 

「世の中で愛し好むもの及び世の中にはびこる貪りは、人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす両極端の欲望にもとづいて起る。また、人が来世に関していだく希望とその成就とは、欲望を掴んで離さないために起る。故にそれらを手放したならば、輪廻から解放されるのである。

スッタニパータ 争闘862の解説

862 「争闘と論争と悲しみと憂いと慳(ものおし)みと慢心と傲慢(ごうまん)と悪口とは、どこから現われ出てきたのですか?これらはどこから起ったのですか?どうか、それを教えてください。」

 

 

863 「争闘と論争と悲しみと憂いと慳(ものおし)みと慢心と傲慢(ごうまん)と悪口とは愛し好むものにもとづいて起る。争闘と争論とは慳(ものおし)みに伴(ともな)い、争論が生じたときに、悪口が起る。」

 

 

「争闘と論争と悲しみと憂いと慳(ものおし)みと慢心と傲慢(ごうまん)と悪口とは自らの人間的思考の運動(快⇔不快)が止められない愛し好むものにもとづいて起る。争闘と争論とは両極端に分け掴んだものを手放せない慳(ものおし)みに伴(ともな)い、争論が生じたときに、悪口が起る。」

 

スッタニパータ 死ぬよりも前に861の解説

861 かれは世間において〈わがもの〉という所有がない。また無所有を嘆くこともない。かれは〔欲望に促(うなが)されて〕、諸々の事物に赴(おもむく)くこともない。かれは実に〈平安なる者〉と呼ばれる。」

 

 

かれは世間において両極端に分けて取ることがないので、わがものという所有がない。また取れなかったとしても無所有を嘆くこともない。かれは欲望に促(うなが)されて、諸々の事物に赴(おもむく)くこともない。かれは実にあるがままに観る平安なる者と呼ばれる。」

 

スッタニパータ 死ぬよりも前に860の解説

860 聖者は貪りを離れ、慳(ものおし)みすることなく、『自分は勝れたものである』とも、『自分は等しいものであるとも』とも、『自分は劣ったものである』とも論ずることがない。かれは分別(ふんべつ)を受けることのないものであって、妄想(もうそう)分別におもむかない。

 

 

 

聖者は自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、貪りを離れ、慳(ものおし)みすることなく、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす想いである『自分は勝れたものである』とも、『自分は等しいものであるとも』とも、『自分は劣ったものである』とも論ずることがない。かれは分別(ふんべつ)を受けることのないものであって、妄想(もうそう)分別におもむかない。かれは、比較対象を離れ、自らを追究し、あるがままに真理を見る。

スッタニパータ 死ぬよりも前に859の解説

859 世俗の人々、または道の人・バラモンどもがかれを非難して(貪りなどの過(とが))があるというであろうが、かれはその(非難)を特に気にかけることはない。それ故に、かれは論議されても、動揺することがない。

 

 

世俗の人々、または道の人・バラモンどもがかれを非難して(貪りなどの過(とが))があるというであろうが、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制しているかれはその非難を特に気にかけることはない。かれは、思考を止めた目で自らを知るものである。それ故に、かれは論議されても、動揺することがない。

スッタニパータ 死ぬよりも前に858の解説

858 かれには、子も、家畜も、田畑も、地所も存在しない。すでに得たものも、捨て去ったものも、かれのうちには認められない。

 

 

人間的思考の運動(快⇔不快)をせいしたかれには、子も、家畜も、田畑も、地所も存在しない。すでに得たものも、捨て去ったものも、かれのうちには認められない。そのように諸々の執着から離れ、あるがままに真理を観たのである。