スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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スッタニパータ解説

スッタニパータ 老い806の解説

806 人が「これはがわがものである」と考える物、ーそれは(その人の)死によって失われる。われに従う人は、賢明にこの理(ことわり)を知って、わがものという観念に屈してははらない。

 

 

人が「これはがわがものである」と考える物、ーそれはその人の死によって失われる。われに従う人は、人間的思考の運動(快⇔不快)を止め、観察によって、賢明にこの理(ことわり)を知って、わがものという観念に屈してははらない。

スッタニパータ 老い805の解説

805 人々は「わがものである」と執着した物のために悲しむ。(自己の)所有しているものは常住ではないからである。この世のものはただ変滅するものである、と見て、在家にとどまってはならない。

 

 

人々は、人間的思考の運動(快⇔不快)を立上げ、「わがものである」と執着した物のために悲しむ。自己の所有しているものは常住ではないからである。この世のものはただ変滅するものである、と真理を見て、(在家=この無常の世)にとどまってはならない。

スッタニパータ 老い804の解説

804 ああ短いかな、人の生命よ。百歳に達せずして死す。たといそれよりも長く生きたとしても。また老衰のために死ぬ。

 

 

ああ短いかな、人の生命よ。百歳に達せずして死す。たといそれよりも長く生きたとしても。また老衰のために死ぬ。故に修行者よ、この無常の世を中道の眼で見、真理を知ってこの世に再び生まれぬようにせよ。

スッタニパータ 最上についての八つの詩句803の解説

803 かれらは、妄想分別をなすことなく、(いずれか一つの偏見を)特に重んずるということもない。かれらは、諸々の協議のいずれかをも受け入れることもない。バラモンは戒律や道徳によって導かれることもない。このような人は、彼岸に達して、もはや還(かえ)ってこない。

 

 

かれらは、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止め、妄想分別をなすことなく、いずれか一つの偏見を特に重んずるということもない。かれらは、諸々の協議のいずれかをも受け入れることもない。真の修行者は戒律や道徳によって導かれることもない。自ら中道の眼によって真理を見る。このような人は、彼岸に達して、もはや還(かえ)ってこない。

スッタニパータ 最上についての八つの詩句802の解説

802 かれはこの世において、見たこと、学んだこと、あるいは思索したことに関して、微塵(みじん)ほどの妄想(もうそう)をも構(かま)えていない。いかなる偏見をも執することのないそのバラモンを、この世においてどうして妄想分別させることができるであろうか?

 

 

かれはこの世において、見たこと、学んだこと、あるいは思索したことに関して、微塵(みじん)ほどの妄想(もうそう)をも構(かま)えていない。自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、いかなる偏見をも執することのないその修行者を、この世においてどうして妄想分別させることができるであろうか?かれは、分別することなく、あるがままに観察を行い真理を見たのである。

スッタニパータ 最上についての八つの詩句801の解説

801 かれはここで、両極端に対し、種々の生存に対し、この世についても、来世についても、願うことがない。諸々の事物に関して断定を下して得た固執の住居(すまい)は、かれには何も存在しない。

 

 

かれはここで、両極端に対し、種々の生存に対し、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、この世についても、来世についても、願うことがない。諸々の事物に関して断定を下して得た何かを掴もうとするような固執の住居(すまい)は、かれには何も存在しない。故にかれは解脱するのである。

スッタニパータ 最上についての八つの詩句800の解説

800 かれは、すでに得た(見解)〔先入見〕を捨て去って執着することなく、学識に関しても特に依拠することをしない。人々は(種々異なった見解に)分かれているが、かれは実に党派に盲従(分別なく人の言うがままに従うこと)せずいかなる見解もをそのまま信ずることはない。

 

 

かれは、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、すでに得た(見解)〔先入見〕を捨て去って執着することなく、学識に関しても特に依拠することをしない。人々は人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げては、種々異なった見解に分かれているが、かれは実に党派に盲従(分別なく人の言うがままに従うこと)せず、いかなる見解もをそのまま信ずることはない。かれは両極端に影響を受けることなく中道を歩み真理を見たのである。

スッタニパータ 最上についての八つの詩句799の解説

799 智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において偏見をかまえてはならない。自分を他人と「等しい」と示すことなく、他人よりも「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない。

 

 

智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす偏見をかまえてはならない。自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、自分を他人と「等しい」と示すことなく、他人よりも「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない。個々にこだわることなく、全体を観察することによってこそ真理を見る事ができるのである。

スッタニパータ 最上についての八つの詩句798の解説

798 人が何か或(あ)るものに依拠(いきょ、いぞん)して「その他のものはつまらぬものである」と見なすならば、それは実にこだわりである、と(真理に達した人々)は語る。それ故に修行者は、見たこと・学んだこと・思索したこと、または戒律や道徳にこだわってはならない。

 

 

 

人が何か或(あ)るものに依拠(いきょ、いぞん)して「その他のものはつまらぬものである」と見なすならば、それは実にこだわりである、と真理に達した人々は語る。それ故に修行者は、見たこと・学んだこと・思索したこと、または戒律や道徳にこだわってはならない。人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、こだわりを捨て、全体を見る中道による観察を行うべきである。

スッタニパータ 最上についての八つの詩句797の解説

797 かれ(=世間の思想家)は、見たこと・学んだこと・戒律や道徳・思索したことについて、自分の奉じていることのうちにのみすぐれた実りを見、そこで、それだけに執着して、それ以外の他のものをすべてつまらぬものであると見なす。

 

 

かれ(=世間の思想家)は、見たこと・学んだこと・戒律や道徳・思索したことについて、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げては自分の奉じていることのうちにのみすぐれた実りを見、そこで、その見方だけに執着して、それ以外の他のものをすべてつまらぬものであると見なす。すなわち両極端の一方を取り半分を捨てるが故に全体を見る事ができないのである。それゆえに真理に到達することは出来ない。