スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

suttanipata

info@suttanipata.com


Warning: Undefined array key 0 in /home/r6286533/public_html/suttanipata.com/wp-content/themes/hpb20170224161711/breadcrumb.php on line 127
スッタニパータ解説

スッタニパータ 死ぬよりも前に852の解説

852 (遁欲(とんよく)などから)遠ざかり、偽(いつわ)ることなく、貪(むさぼ)り求めることなく、慳(ものおし)みせず、傲慢(ごうまん)にならず、嫌(きら)われず、両舌(かげぐち)を事としない。

 

 

自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制して、両極端がもたらす遁欲(とんよく)などから遠ざかり、両極端を掴もうと偽(いつわ)ることなく、両極端を貪(むさぼ)り求めることなく、両極端を得ても慳(ものおし)みせず、傲慢(ごうまん)にならず、嫌(きら)われず、得られなかったとしても両舌(かげぐち)を事としない。そのように修行者は心の動揺を制するのである。

スッタニパータ 死ぬよりも前に851の解説

851 未来を願い求めることなく、過去を思い出して憂(うれ)えることもない。[現在]感官で触れる諸々の対象について遠ざかり離れることを観じ、諸々の偏見に誘われることがない。

 

 

 

自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、心の動揺が生じない聖者は、未来を願い求めることなく、過去を思い出して憂(うれ)えることもない。自らの反応の仕方に注視し、[現在]感官で触れる諸々の対象について遠ざかり離れることを観じ、諸々の偏見に誘われることがない。

スッタニパータ 死ぬよりも前に850の解説

850 かの聖者は、怒らず、おののかず、誇(ほこ)らず、あとで後悔するような悪い行いをなさず、よく思慮して語り、そわそわすることなく、ことばを慎(つつ)しむ。

 

 

かの聖者は、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制しつくし、怒らず、おののかず、誇(ほこ)らず、あとで後悔するような悪い行いをなさず、よく思慮して語り、そわそわすることなく、ことばを慎(つつ)しむ。このように中道を歩むのである。

スッタニパータ 死ぬよりも前に849の解説

848 「どのように見、どのように戒律をたもつ人が『安らかである』と言われるのか?ゴータマ(ブッダ)よ。おたずねしますが、その最上の人のことをわたしに説いてください。」

 

 

849 師は答えた、「死ぬよりも前に、妄執を離れ、過去にこだわることなく、現在においてもくよくよと思いめぐらすことがないならば、かれは(未来に関しても)特に思いわずらうことがない。

 

 

師は答えた、「死ぬよりも前に、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制しつくし、妄執を離れ、過去にこだわることなく、現在においても、くよくよと思いめぐらすことがないならば、かれは未来に関しても特に思いわずらうことがない。このように中道を歩む者こそ安らかな者であると言うのである。

スッタニパータ マーガンディヤ847の解説

847 想いを離れた人には、結ぶ縛(いまし)めが存在しない。智慧によって解脱(げだつ)した人には、迷いが存在しない。想いと偏見とに固執した人々は、互いに衝突しながら、世の中をうろつく。」

 

 

両極端による想いを離れた人には、結ぶ縛(いまし)めが存在しない。中道を歩むことによって見た智慧によって解脱(げだつ)した人には、迷いが存在しない。両極端を制することができず想いと偏見とに固執した人々は、互いに衝突しながら、世の中をうろつく。」

スッタニパータ マーガンディヤ846の解説

846 ヴェーダの達人は、見解についても、思想についても、慢心に至ることがない。かれの本性はそのようなものではないからである。かれは宗教的行為によっても導かれないし、また伝統的な学問によっても導かれない。かれは執着の巣窟に導きいれられることがない。

 

 

修行の達人は、見解についても、思想についても、人間的思考の運動(快⇔不快)を制するが故に慢心に至ることがない。かれの本性は運動をするようなものではないからである。かれは宗教的行為によっても導かれないし、また伝統的な学問によっても導かれない。かれは両極端による執着の巣窟に導きいれられることがない。故に中道を歩み真理を見たのである。

 

スッタニパータ マーガンディヤ845の解説

845 竜(修行完成者)は諸々の(偏見)を離れて世間を遍歴するのであるから、それらに固執して論争してはならない。たとえば汚れから生(は)える、茎に棘(とげ)のある蓮(はす)が、水にも泥にも汚されないように、そのように聖者は平安を説く者であって、貪(むさぼ)ることなく、欲望にも世間にも汚されることがない。

 

 

竜(修行完成者)は自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、諸々の偏見を離れて世間を遍歴するのであるから、両極端に固執して論争してはならない。たとえば汚れから生(は)える、茎に棘(とげ)のある蓮(はす)が、水にも泥にも汚されないように、そのように聖者は平安(中道)を説く者であって、両極端を貪(むさぼ)ることなく、欲望にも世間にも汚されることがない。そのように中道を歩むのである。

スッタニパータ マーガンディヤ844の解説

844 家を捨てて、住所を定めずにさまよい、村の中で親交を結ぶことのない聖者は、諸々の欲望を離れ、未来に望みをかけることなく、人々に対して異論を立てて談論をしてはならない。

 

 

 

気づきを糧にし、家を捨てて、住所を定めずにさまよい、村の中で親交を結ぶことのない聖者は、諸々の人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす欲望を離れ、未来に望みをかけて求めることなく、あるがままに遍歴する聖者は、人々に対して異論を立てて談論をしてはならない。

スッタニパータ マーガンディヤ843の解説

843 そのバラモンはどうして『(わが説は)真実である』と論ずるであろうか。またかれは『(汝の説は)虚偽(きょぎ)である』といって誰と論争するであろうか?『等しい』とか『等しくない』とかいうことのなくなった人は、誰に論争を挑(いど)むであろうか。

 

 

そのバラモンはどうして自らの人間的思考の運動(正⇔誤)を立上げて『(わが説は)真実である』と論ずるであろうか。またかれは『(汝の説は)虚偽(きょぎ)である』といって誰と論争するであろうか?自らの人間的思考の運動(正⇔誤)を制し、『等しい』とか『等しくない』とかいうことのなくなった人は、誰に論争を挑(いど)むであろうか。かれは思考の運動を止めあるがままに真理を見たのである。

 

 

スッタニパータ マーガンディヤ842の解説

842 『等しい』とか『すぐれている』とか、あるいは『劣(おと)っている』とか考える人、ーかれはその思いによって論争するであろう。しかしそれらの三種に関して動揺しない人、ーかれには『等しい』とか、『すぐれている』とか、(あるいは『劣っている』とか)いう思いは存在しない。

 

 

自らの人間的思考の運動(正⇔誤)を立上げて『等しい』とか『すぐれている』とか、あるいは『劣(おと)っている』とか考える人、ーかれはその思いによって論争するであろう。しかし自らの人間的思考の運動(正⇔誤)を制して、それらの三種に関して動揺しない人、ーかれには『等しい』とか、『すぐれている』とか、(あるいは『劣っている』とか)いう思いは存在しない。