859 世俗の人々、または道の人・バラモンどもがかれを非難して(貪りなどの過(とが))があるというであろうが、かれはその(非難)を特に気にかけることはない。それ故に、かれは論議されても、動揺することがない。
世俗の人々、または道の人・バラモンどもがかれを非難して貪りなどの過(とが)があるというであろうが、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、観察によって理法を知るかれはその非難を特に気にかけることはない。それ故に、かれは論議されても、動揺することがない。
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859 世俗の人々、または道の人・バラモンどもがかれを非難して(貪りなどの過(とが))があるというであろうが、かれはその(非難)を特に気にかけることはない。それ故に、かれは論議されても、動揺することがない。
世俗の人々、または道の人・バラモンどもがかれを非難して貪りなどの過(とが)があるというであろうが、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、観察によって理法を知るかれはその非難を特に気にかけることはない。それ故に、かれは論議されても、動揺することがない。
858 かれには、子も、家畜も、田畑も、地所も存在しない。すでに得たものも、捨て去ったものも、かれのうちには認められない。
かれには、子も、家畜も、田畑も、地所も存在しない。すでに得たものも、捨て去ったものも、かれのうちには認められない。このように人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、執着の対象を取り払ったのである。
857 諸々の欲望を顧慮(こりょ)することのない人、ーかれこそ〈平安なる者〉である、とわたくしは説く。かれには縛(いまし)めの結び目は存在しない。かれはすでに執着を渡り了(お)えた。
自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、諸々の欲望を顧慮(こりょ)することのない人、ーかれこそ〈平安なる者〉=〈中道を歩む者〉である、とわたくしは説く。かれには人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす縛(いまし)めの結び目は存在しない。かれはすでに執着を渡り了(お)えた。
856 依りかかることのない人は、理法を知ってこだわることがないのである。かれには、生存のための妄執も、生存の断滅のための妄執も存在しない。
両極端を手放し、煩悩に依りかかることのない人は、理法を知ってこだわることがないのである。両極端を手放したかれには、生存のための妄執も、生存の断滅のための妄執も存在しない。このように解脱していくのである。
855 平静であって、常によく気をつけていて、世間において(他人と自分と)等しいとは思わない。また自分が勝(すぐ)れているとも思わないし、また劣(おと)っているとも思わない。かれには煩悩(ぼんのう)の燃え盛(さか)ることがない。
修行者は、平静であって、常によく自らの人間的思考の運動(快⇔不快)に気をつけていて、世間において他人と自分とを等しいとは思わない。また自分が勝(すぐ)れているとも思わないし、また劣(おと)っているとも思わない。自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制したかれには煩悩(ぼんのう)の燃え盛(さか)ることがない。
854 利益を欲して学ぶのではない。利益がなかったとしても、怒ることがない。妄執のために他人に逆(さから)うことがなく、美味に耽溺(たんでき)することもない。
人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす利益を欲して学ぶのではない。利益がなかったとしても、怒ることがない。両極端による妄執のために他人に逆(さから)うことがなく、美味に耽溺(たんでき)することもない。これらの思考の運動を制し、あるがままに観察することである。
853 快(こころよ)いものに耽溺(たんでき)せず、また高慢にならず、柔和(にゅうわ)で、弁舌さわやかに、信ずることなく、なにかを嫌うこともない。
自らの人間的思考の運動(快⇔不快)によく気をつけ、快(こころよ)いものに耽溺(たんでき)せず、また何かを掴んだ時に高慢にならず、柔和(にゅうわ)で、弁舌さわやかに、信ずることなく、なにかを嫌うこともない。このように自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制するのである。
852 (遁欲(とんよく)などから)遠ざかり、偽(いつわ)ることなく、貪(むさぼ)り求めることなく、慳(ものおし)みせず、傲慢(ごうまん)にならず、嫌(きら)われず、両舌(かげぐち)を事としない。
人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす遁欲(とんよく)などから遠ざかり、何かを掴もうと偽(いつわ)ることなく、貪(むさぼ)り求めることなく、掴んだとしても、慳(ものおし)みせず、傲慢(ごうまん)にならず、嫌(きら)われず、両舌(かげぐち)を事としない。これらは、人間的思考の運動(快⇔不快)を止める修行に努めれば、立ち上がることはないのである。
851 未来を願い求めることなく、過去を思い出して憂(うれ)えることもない。[現在]感官で触れる諸々の対象について遠ざかり離れることを観じ、諸々の偏見に誘われることがない。
人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす何かを掴もうと未来を願い求めることなく、過去を思い出して憂(うれ)えることもない。[現在]感官で触れる諸々の対象について思考の運動を止めて遠ざかり離れることを観じ、諸々の偏見=こだわりに誘われることがない。
850 かの聖者は、怒らず、おののかず、誇(ほこ)らず、あとで後悔するような悪い行いをなさず、よく思慮して語り、そわそわすることなく、ことばを慎(つつ)しむ。
かの聖者は、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、怒らず、おののかず、誇(ほこ)らず、両極端を掴もうとするあとで後悔するような悪い行いをなさず、よく思慮して語り、そわそわすることなく、ことばを慎(つつ)しむ。このように中道を保つ者である。