スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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スッタニパータ解説

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇880の解説

880 もしも論敵の教えを承諾しない人が愚者であって、低級な者であり、智慧の劣った者であるならば、これらの人々はすべて(各自の)偏見を固執しているのであるから、かれらはすべて愚者であり、ごく智慧の劣った者であるということになる。

 

 

 

もしも論敵の教えを承諾しない人が愚者であって、低級な者であり、智慧の劣った者であるならば、これらの人々はすべて各自の人間的思考の運動(優⇔劣)による偏った見方を固執しているのであるから、かれらはすべて愚者であり、ごく智慧の劣った者であるということになる。修行者とは、自らを磨くことに努め励み、他にとらわれないものである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇879の解説

879 かれらはこのように異なった執見をいだいて論争し、「論敵は愚者であって、真理に達した人ではない」と言う。これらの人々はみな「自分こそ真理に達した人である」と語っているが、これらのうちで、どの説が真実なのであろうか?

 

 

かれらはこのように異なった自らの見方に執着(苦)をいだいて論争し、人間的思考の運動(真理者⇔愚者)の反応の仕方により「論敵は愚者であって、真理に達した人ではない」と言う。これらの人々はみな「自分こそ真理に達した人である」と語っているが、これらのうちで、どの説が真実なのであろうか?そもそも真理に達した人々は、自らの考えにこだわることなく人間的思考の運動を制するものなのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇878の解説

878 (世の中の学者たちは)めいめいの見解に固執して、互いに異なった執見(しゅうけん)をいだいて争い、(みずから真理への)熟達者であると称して、さまざまに論ずる。ー「このように知る人は真理を知っている。これを非難する人はまだ不完全な人である」と。

 

 

世の中の学者たちはめいめいの人間的思考の運動(正⇔誤)による見解に固執して、互いに異なった自らの見方に執着をいだいて争い、みずから真理への熟達者であると称して、さまざまに論ずる。ー「このように知る人は真理を知っている。これを非難する人はまだ不完全な人である」と。他の見方が自らの修行と何のかかわりがあるのであろうか?その思考の運動こそが人間的思考なのである。

 

 

スッタニパータ 争闘876、877の解説

875 「われらがあなたにおたずねしたことを、あなたはわれわれに説き明かしてくださいました。われらは別のことをあなたにおたずねしましょう。どうか、それを説いてください。ーこの世における或る賢者たちは、『この状態だけが、霊(たましい)の最上の清浄の境地である』とわれらに語ります。しかしまた、それよりも以上に、『他の(清浄の境地)がある』と説く人々もいるのでしょうか?」

 

 

876 「この世において或る賢者たちは、『霊の最上の清浄の境地はこれだけのものである』と語る。さらにかれらのうちの或る人々は断滅を説き、(精神も肉体も)残りなく消滅することのうちに(最上の清浄の境地がある)と巧(たく)みに語っている。

 

 

877 かの聖者は、『これらの偏見はこだわりがある』と知って、諸々のこだわりを熟考し、知った上で、解脱(げだつ)せる人は論争におもむかない。思慮ある賢者は種々なる変化的生存を受けることがない。」

 

 

 

「この世において或る賢者たちは、人間的思考の運動(優⇔劣)による反応の仕方により『霊の最上の清浄の境地はこれだけのものである』と語る。さらにかれらのうちの或る人々は人間的思考の運動(優⇔劣)による反応の仕方により断滅を説き、精神も肉体も残りなく消滅することのうちに最上の清浄の境地があると巧(たく)みに優れていると語っている。かの聖者は、『これらの偏見は人間的思考の運動(優⇔劣)によるこだわりがある』と知って、諸々のこだわりである反応の仕方を熟考し、知った上で、解脱(げだつ)せる人は論争におもむかない。思慮ある賢者は種々なる変化的生存すなわち優⇔劣による運動を受けることがない。」15

 

スッタニパータ 争闘874の解説

873 「どのように修行した者によって、形態が消滅するのですか?楽と苦はいかにして消滅するのですか?どのように消滅するのか、その消滅するありさまを、わたくしに説いてください。わたくしはそれを知りたいものです。ーわたくしはこのように考えました。」

 

 

874 「ありのままに想う者でもなく、誤って想う者でもなく、想いなき者でもなく、想いを消滅した者でもない。ーこのように理解した者の形態は消滅する。けだしひろがりの意識は、想いにもとづいて起るからである。」

 

 

 

人間的思考の運動(快⇔不快)による「想い」制せよ「ありのままに「想う」者でもなく、誤って「想う」者でもなく、「想い」なき者でもなく、「想い」を消滅した者でもない。ーこのように理解した者の形態は消滅する。けだしひろがりの意識は、「想い」にもとづいて起こるからである。」

スッタニパータ 争闘872の解説

871 「世の中で感官による接触は何にもとづいて起るのですか?また所有欲は何から起るのですか?何ものが存在しないときに、〈わがもの〉という我執が存在しないのですか?何ものが消滅したときに、感官による接触がはたらかないのですか?」

 

 

872 「名称と形態とに依って感官による接触が起る。諸々の所有欲は欲求を縁として起る。欲求がないときには、〈わがもの〉という我執も存在しない。形態が消滅したときには〈感官による接触〉ははたらかない。」

 

 

「名称と形態とに依って感官による接触が起る。諸々の所有欲は接触による人間的思考の運動(快⇔不快)による欲求を縁として起る。人間的思考の運動(快⇔不快)を制して欲求がないときには、わがものという我執も存在しない。限りなく人間的思考の運動(快⇔不快)を制して、解脱し形態が消滅したときには感官による接触ははたらかない。」

スッタニパータ 争闘870の解説

869 「快と不快とは何にもとづいて起るのですか?また何がないときにこれらのものが現われないのですか?また生起と消滅ということの意義と、それの起るもととなっているものを、われに語ってください。」

 

 

870 「快と不快とは、感官による接触にもとづいて起る。感官による接触が存在しないときには、これらのものも起らない。生起と消滅ということの意義と、それの起るもととなっているもの(感官による接触)を、われは汝に告げる。」

 

 

 

「人間的思考の運動である快と不快とは、感官による接触すなわち目、耳、鼻、舌、身、意による接触にもとづいて起る。感官による接触が存在しないときには、これらのものも起らない。この世の生起と消滅ということの意義と、無常の世に輪廻が起るもととなっているもの「感官による接触」を、われは汝に告げる。

スッタニパータ 争闘868の解説

868 怒りと虚言と疑惑、ーこれらのことがらも、(快と不快との)二つがあるときに現われる。疑惑ある人は知識の道に学べ。〈道の人〉は、知って、諸々のことがらを説いたのである。」

 

 

怒りと虚言と疑惑、ーこれらのことがらも、人間的思考の運動による快と不快との二つがあるときに現われる。疑惑ある人は理の道に学べ。すなわち人間的思考の運動による貪りが生じ、快が得られないときに怒りが生じ、快を得るために虚言が生じる。それらが運動(快⇔不快)をするが故に疑惑も生じる。修行者は、知って、諸々のことがらを説いたのである。

 

スッタニパータ 争闘867の解説

866 「さて世の中で欲望は何にもとづて起るのですか?また(形而上学的(けいじじょうがくてき)な)断定は何から起るのですか?怒りと虚言と疑惑と及び(道の人)(沙門(しゃもん))の説いた諸々のことがらは、何から起るのですか?」

 

 

 

867 「世の中で〈快〉〈不快〉と称するものに依って、欲望が起る。諸々の物質的存在には生起と消滅とのあることを見て、世の中の人は(外的な事物にとらわれた)断定を下す。

 

 

世の中で〈快〉〈不快〉と称するものの運動に依って、欲望が起る。諸々の物質的存在には生起と消滅との運動があることを見て、世の中の人は外的な事物にとらわれた両極端の断定を下す。

スッタニパータ 争闘865の解説

864 世間において、愛し好むものは何にもとづいて起るのですか。また世間にはびこる貪(むさぼ)りは何にもとづいて起るのですか。また人が来世に関していだく希望とその成就(じょうじゅ)とは、何にもとづいて起るのですか?」

 

865 「世の中で愛し好むもの及び世の中にはびこる貪りは、欲望にもとづいて起る。また、人が来世に関していだく希望とその成就とは、それにもとづいて起る。」

 

 

「世の中で愛し好むもの及び世の中にはびこる貪りは、人間的思考の運動(快⇔不快)による欲望にもとづいて起る。また、人が来世に関していだく希望とその成就とは、それにもとづいて起る。」すなわち人は人間的思考の運動(快⇔不快)による強い執着によってこの世界へ転生し成就(快)を得られたとしてもそれは運動をするので、まったく逆の不快もそれに伴って現れる。そうしては、快を求め転生し、人はそれを繰り返す。