スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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スッタニパータ解説

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇901の解説

901 あるいはぞっとする苦行にもとづき、あるいは見たこと、学んだこと、思索したことにもとづき、声を高くして清浄を賛美するが、妄執を離れていないので、移りかわる種々なる生存のうちにある。

 

 

 

あるいは自らの偏った見方であるぞっとする苦行にもとづき、あるいは見たこと、学んだこと、思索し分別たことにもとづき、声を高くして清浄を賛美するが、人間的思考の運動(清浄⇔不浄)による妄執を離れていないので、その想いによる移りかわる種々なる生存のうちにある。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇900の解説

900 一切の戒律や誓いをも捨て、(世間の)罪過(ざいか)あり或いは罪過なきこの(宗教的)行為をも捨て、「清浄である」とか「不浄である」とかいってねがい求めることもなく、それらにとらわれずに行え。ー安らぎを固執することもなく。

 

 

一切の戒律や誓いへのこだわりも捨て、世間の罪過(ざいか)あり或いは罪過なきこの人間的思考の運動(罪過あり⇔なし)の反応の仕方による宗教的行為をも捨て、「清浄である」とか「不浄である」とかいって両極端のねがいを求めることもなく、それらの人間的思考の運動にとらわれずに行え。ー安らぎにも執着することもなく。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇899の解説

899 もしもかれが戒律や制戒を破ったならば、かれは〈戒律や制戒の〉つとめにそむいて、おそれおののく。(それのみならず、)かれは「こうしてのみ清浄が得られる」ととなえて望み求めている。たとえば隊商からはぐれた(商人が隊商をもとめ)、家から旅立った(旅人が家をもとめる)ようなものである。

 

 

もしもかれが戒律や制戒を破ったならば、かれは戒律や制戒のつとめにそむいて、おそれおののく。すなわち戒律や制戒によって苦が生じるのである。それのみならず、かれは「こうしてのみ清浄が得られる」ととなえて望み求めている。たとえば隊商からはぐれた商人が隊商をもとめ見つからなければ不安になり、見つかれば安心するという人間的思考の運動(安心⇔不安)であり、家から旅立った旅人が不安になり、家をもとめて見つかれば安心するようなものである。このような心の運動と同じであり戒律を守れば安心し、破れば不安になるのである。それを知って聖者はその両極端を制して中道を歩み安穏を観たのである。

 

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇898の解説

898 戒律を最上のものと仰いでいる人々は、「制戒によって清浄が得られる」と説き、制戒を受けている。「われらはこの教えで学びましょう。そうすれば清浄が得られるでしょう」といって、〈真理に達した者〉と称する人々は、流転する迷いの生存に誘(ひ)き込まれている。

 

 

戒律を最上のものと仰いでいる人々は、「制戒によって清浄が得られる」と説き、制戒を受けている。「われらはこの教えで学びましょう。そうすれば清浄が得られるでしょう」といって、制戒に執着しながら真理に達した者と称する人々は、その人間的思考の運動(制戒を守る⇔守らない)と言う流転する迷いの生存に誘(ひ)き込まれている。

 

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇897の解説

897 すべて凡俗の徒のいだく、これらの世俗的見解に、智者は近づくことがない。かれは、見たり聞いたりしたことがらについて「これだ」と認め知ることがないから、こだわりがない。かれはそもそもどんなこだわりに赴(おもむく)くのであろうか?

 

 

すべて凡俗の徒のいだく、これらの世俗的な人間的思考の運動(優⇔劣)による見解に、智者は近づくことがない。かれは、見たり聞いたりしたことがらについて「これだ」と認め知るすなわち自分の考えに執着することがないから、こだわりがない。かれはそもそもどんなこだわりに赴(おもむく)くのであろうか?こだわることは執着である。自らの考えにこだわり、他(不快)を排除しようとする。同等の意見が快なのである知者はこの快⇔不快の運動は苦であることを知って自らの運動を制し安穏を観たのである。

 

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇896の解説

896 (たとい称讃を得たとしても)それは僅かなものであって、平安を得ることはできない。論争の結果は(称讃と非難との)二つだけである、とわたくしは説く。この道理を見ても、汝らは、無論争の境地を安穏(あんのん)であると観じて、論争をしてはならない。

 

 

たとい称讃を得たとしてもそれは僅かなものであって、平安を得ることはできない。論争の結果は称讃と非難という人間的思考の運動である二つだけである、とわたくしは説く。この道理を見ても、汝らは、人間的思考の運動(称賛⇔非難)を制した無論争の境地を安穏(あんのん)であると観じて、論争をしてはならない。

スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇895の解説

895 これらの偏見を固執して、「これのみが真理である」と宣説する人々、ーかれらはすべて他人からの非難を招く、また、それについて(一部の人々から)称讃を博するだけである。

 

 

 

これらの人間的思考の運動(優⇔劣)による偏見を固執して、「これのみが真理である」と宣説する人々、ーかれらはすべて他人からの非難を招く、また、それについて一部の同じような見方をする人々から称讃を博するだけである。このように運動にもとづいた見方に執着をすると、ある時は称賛され、ある時は非難されるという運動を招くのである。それを知って聖者はその運動による反応の仕方によく気をつけ、その運動から出たところに智慧を視たのである。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇894の解説

894 一方的に決定した立場に立ってみずから考え量(はか)りつつ、さらにかれは世の中で論争をなすに至る。一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。

 

 

 

人間的思考の運動(優⇔劣)の反応の仕方によって一方的に決定した立場に立ってみずから考え量(はか)りつつ、さらにかれは、その他の見方による人々と世の中で論争をなすに至る。一切の哲学的断定による執着を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇893の解説

893 自分の道を堅くたもって論じているが、ここに他の何びとを愚者であると見ることができようぞ。他(の説)を、「愚かである」、「不浄の教えである」、と説くならば、かれはみずから確執(かくしつ)をもたらすであろう。

 

 

 

自分の見方を堅くたもって論じているが、ここに他の何びとを愚者であると見ることができようぞ。他の説を、「愚かである」、「不浄の教えである」、と説くならば、かれはみずから確執(かくしつ)をもたらすであろう。かれは、自ら人間的思考の運動(優⇔劣)に陥り道を踏み外しているのだから。

スッタニパータ 並ぶ応答ー小篇892の解説

892 ここ〈わが説〉にのみ清浄があると説き、他の諸々の教えには清浄がないと言う。このように一般の諸々の異説の徒はさまざまに執着し、かの自分の道を堅(かた)くたもって論ずる。

 

 

 

人間的思考の運動(優⇔劣)により、ここ、わが説にのみ清浄があると説き、他の諸々の教えには清浄がないと言う。このように一般の諸々の異説の徒はさまざまに自らの考えに執着し、かの自分の執着した道を堅(かた)くたもって論ずる。