スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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スッタニパータ解説

スッタニパータ 最上についての八つの詩句803の解説

803 かれらは、妄想分別をなすことなく、(いずれか一つの偏見を)特に重んずるということもない。かれらは、諸々の協議のいずれかをも受け入れることもない。バラモンは戒律や道徳によって導かれることもない。このような人は、彼岸に達して、もはや還(かえ)ってこない。

 

 

かれらは、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、妄想分別をなすことなく、いずれか一つの偏見を掴むことなく特に重んずるということもない。かれらは、諸々の協議のいずれかをも受け入れることもない。修行者は戒律や道徳によって導かれることもない。かれは、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制した目で、観察し、真理を見る。このような人は、彼岸に達して、もはや還(かえ)ってこない。

スッタニパータ 最上についての八つの詩句802の解説

802 かれはこの世において、見たこと、学んだこと、あるいは思索したことに関して、微塵(みじん)ほどの妄想(もうそう)をも構(かま)えていない。いかなる偏見をも執することのないそのバラモンを、この世においてどうして妄想分別させることができるであろうか?

 

 

かれはこの世において、見たこと、学んだこと、あるいは思索したことに関して、あるがままに観る事を常とし、微塵(みじん)ほどの妄想(もうそう)をも構(かま)えていない。それらへ対しての自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、いかなる偏見をも執することのないその修行者を、この世においてどうして妄想分別させることができるであろうか?

 

スッタニパータ 最上についての八つの詩句801の解説

801 かれはここで、両極端に対し、種々の生存に対し、この世についても、来世についても、願うことがない。諸々の事物に関して断定を下して得た固執の住居(すまい)は、かれには何も存在しない。

 

 

かれはここで、両極端に対しての想い、種々の生存に対しての想い、この世でのあり方についても、来世に対しての希望ついても、願うことがない。諸々の事物に関して人間的思考の運動(快⇔不快)によって断定を下して得たあるいは掴んだ固執の住居(すまい)は、かれには何も存在しない。故にかれは、それらへの想いから解放されているのである。

スッタニパータ 最上についての八つの詩句800の解説

800 かれは、すでに得た(見解)〔先入見〕を捨て去って執着することなく、学識に関しても特に依拠することをしない。人々は(種々異なった見解に)分かれているが、かれは実に党派に盲従(分別なく人の言うがままに従うこと)せずいかなる見解もをそのまま信ずることはない。

 

 

かれは、過去に分別した見解あるいは先入見を捨て去って自らの想いに執着することなく、学識に関しても人間的思考の運動(快⇔不快)を制して、特に依拠することをしない。人々は種々異なった見解を掴んでは、それらに依存し、分かれているが、かれは実に党派に盲従(分別なく人の言うがままに従うこと)せず、いかなる見解に対しても、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制して、掴むことなく、依存せず、そのまま信ずることはない。故にかれは、それらへの想いから解放されているのである。

スッタニパータ 最上についての八つの詩句799の解説

799 智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において偏見をかまえてはならない。自分を他人と「等しい」と示すことなく、他人よりも「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない。

 

 

智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において人間的思考の運動(快⇔不快)である偏見をかまえてはならない。自らの運動を制し、自分を他人と「等しい」と示すことなく、他人よりも「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない。それらの想いが人間的思考の運動(快⇔不快)なのである。

スッタニパータ 最上についての八つの詩句798の解説

798 人が何か或(あ)るものに依拠(いきょ、いぞん)して「その他のものはつまらぬものである」と見なすならば、それは実にこだわりである、と(真理に達した人々)は語る。それ故に修行者は、見たこと・学んだこと・思索したこと、または戒律や道徳にこだわってはならない。

 

 

人が自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げ、何か或(あ)るものに依拠(いきょ、いぞん)して「その他のものはつまらぬものである」と見なすならば、それは実にこだわり=人間的思考の運動(快⇔不快)である、と真理に達した人々は語る。それ故に修行者は、見たこと・学んだこと・思索したこと、または戒律や道徳に対して自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制することに努め、こだわってはならない。

スッタニパータ 最上についての八つの詩句797の解説

797 かれ(=世間の思想家)は、見たこと・学んだこと・戒律や道徳・思索したことについて、自分の奉じていることのうちにのみすぐれた実りを見、そこで、それだけに執着して、それ以外の他のものをすべてつまらぬものであると見なす。

 

 

世間の思想家は、見たこと・学んだこと・戒律や道徳・思索したことについて、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げ、自分の奉じていることのうちにのみすぐれた実りを見、そこで、それだけに執着して、それ以外の他のものをすべてつまらぬものであると見なす。故に真理を視る事はできないのである。

スッタニパータ 最上についての八つの詩句796の解説

796 世間では、人は諸々の見解のうちで勝(すぐ)れているとみなす見解を「最上のもの」であると考えて、それよりも他の見解はすべて「つまらないものである」と説く。それ故にかれは諸々の論争を超えることがない。

 

 

世間では、人は諸々の見解のうちで人間的思考の運動(快⇔不快)によって分別し、勝(すぐ)れているとみなす見解を「最上のもの」であると考えて、それよりも他の見解はすべて「つまらないものである」と説く。それ故にかれは自らの人間的思考の運動(快⇔不快)が止められず、諸々の論争を超えることがない。

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句795の解説

795 (真の)バラモンは、(煩悩の)範囲をのり超えている。かれが何ものかを知りあるいは見ても、執着することがない。かれは欲を貪ることなく、また離欲を貪ることもない。かれは(この世ではこれが最上のものである)と固執することもない。

 

 

 

真の修行者は、人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす煩悩の範囲をのり超えている。かれが何ものかを知りあるいは見ても、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、執着することがない。かれは人間的思考の運動(快⇔不快)による欲を貪ることなく、また自らの修行に対する離欲を貪ることもない。かれは修行方法に対しても、この世ではこれが最上のものであると固執することもない。

スッタニパータ 清浄についての八つの詩句794の解説

974 またさらに、世間には五つの塵垢(ちりあか)がある。よく気をつけて、それらを制するためにつとめよ。すなわち色かたちと音声と味と香りと触(ふ)れられるものに対する貪欲を抑制せよ。

 

 

 

またさらに、世間には五つの塵垢(ちりあか)がある。よく気をつけて、それらに対する人間的思考の運動(快⇔不快)を制するために中道を保つことにつとめよ。すなわち色かたちと音声と味と香りと触(ふ)れられるものに対する人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす貪欲を抑制せよ。