スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

suttanipata

info@suttanipata.com


Warning: Undefined array key 0 in /home/r6286533/public_html/suttanipata.com/wp-content/themes/hpb20170224161711/breadcrumb.php on line 127
スッタニパータ解説

スッタニパータ 老い813の解説

813 邪悪を掃い除いた人は、見たり学んだり思索したどんなことでも特に執着して考えることがない。かれは他のものによって清らかになろうとは望まない。かれは貪らず、また嫌うこともない。

 

 

 

自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、両極端による邪悪を掃い除いた人は、見たり学んだり思索したどんなことでも特に分けることなく、執着して考えることがない。かれはその人間的思考の運動(快⇔不快)を止めた目で見る真理以外のものによって清らかになろうとは望まない。かれは自らの運動を制し、貪らず、また嫌うこともない。

 

スッタニパータ 老い812の解説

812 たとえば蓮の葉の上の水滴、あるいは蓮華の上の水が汚されないように、それと同じく聖者は、見たり学んだり思索したどんなことについても、汚されることがない。

 

 

たとえば蓮の葉の上の水滴、あるいは蓮華の上の水が汚されないように、それと同じく聖者は、見たり学んだり思索したどんなことについても、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、汚されることがない。自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制すること、それが苦をはじく事に他ならない。

スッタニパータ 老い811の解説

811 聖者はなにものにもとどこおることなく、愛することもなく、憎むこともない。悲しみも慳(ものおし)みもかれを汚すことがない。譬(たと)えば(蓮(はす)の)葉の上の水が汚されないようなものである。

 

 

聖者はなにものにもとどこおることなく、人間的思考の運動(愛⇔憎)の運動を制し、愛することもなく、憎むこともない。それらを手放しているので、悲しみも慳(ものおし)みもかれを汚すことがない。譬(たと)えば(蓮(はす)の)葉の上の水が汚されないようなものである。そのように聖者は、人間的思考の運動(快⇔不快)に汚されることなく中道を歩むのである。

スッタニパータ 老い810の解説

810 遠ざかり退(しりぞ)いて行ずる修行者は、独り離れた座所に親しみ近づく。迷いの生存の領域のうちに自己を現さないのが、かれにふさわしいことであるといわれる。

 

 

執着の対象から遠ざかり退(しりぞ)いて行ずる修行者は、人間的思考の運動(快⇔不快)である両極端から独り離れた座所に親しみ近づく。迷いの生存の領域=思考の運動のうちに自己を現さないのが、かれにふさわしいことであるといわれる。

スッタニパータ 老い809の解説

809 わがものとして執着したものを貪り求める人々は、憂いと悲しみと慳(ものおし)みとを捨てることがない。それ故に諸々の聖者は、所有を捨てて行って安穏(あんのん)を見たのである。

 

 

わがものとして執着したものを貪り求める人々は、それらを掴むが故に憂い、それらを掴むが故に悲しみ、それらを手放さないが故に慳(ものおし)みを捨てることがない。それ故に諸々の聖者は、それらの苦しみのもとである執着の対象を手放して、安穏(あんのん)を見たのである。

 

スッタニパータ 老い808の解説

808 「何の誰それ」という名で呼ばれ、かつては見られ、また聞かれた人でも、死んでしまえば、ただ名が残って伝えられるだけである。

 

 

「何の誰それ」という名で呼ばれ、かつては見られ、また聞かれた人でも、死んでしまえば、ただ名が残って伝えられるだけである。ただそれだけの事なのである。故に修行者は、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、怠ることなく「こだわり」を捨て去って、動揺することなく、世の中を遍歴せよ。

スッタニパータ 老い807の解説

807 夢の中で会った人でも、目がさめたならば、もはやかれを見ることができない。それと同じく、愛した人でも死んでこの世を去ったならば、もはや再び見ることができない。

 

 

夢の中で会った人でも、目がさめたならば、もはやかれを見ることができない。それと同じく、愛した人でも死んでこの世を去ったならば、もはや再び見ることができない。修行者は、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止めて、怠ることなく観察し、この無常を感じとるのである。

スッタニパータ 老い806の解説

806 人が「これはがわがものである」と考える物、ーそれは(その人の)死によって失われる。われに従う人は、賢明にこの理(ことわり)を知って、わがものという観念に屈してははらない。

 

 

人が「これはがわがものである」と考える物、ーそれは(その人の)死によって失われる。われに従う人は、賢明に自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止めて、よく観察し、この理(ことわり)=一時的な事であると知って、わがものという観念に屈してははらない。

 

スッタニパータ 老い805の解説

805 人々は「わがものである」と執着した物のために悲しむ。(自己の)所有しているものは常住ではないからである。この世のものはただ変滅するものである、と見て、在家にとどまってはならない。

 

 

人々は人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げ、「わがものである」と執着した物のために悲しむ。自己の所有しているものは常住ではないからである。智慧ある修行者は、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止めて、世の中を観察し、この世のものはただ変滅するものである、と見て、在家=輪廻流転の領域にとどまってはならない。

 

スッタニパータ 老い804の解説

804 ああ短いかな、人の生命よ。百歳に達せずして死す。たといそれよりも長く生きたとしても。また老衰のために死ぬ。

 

 

 

ああ短いかな、人の生命よ。百歳に達せずして死す。たといそれよりも長く生きたとしても。また老衰のために死ぬ。この世は無常である。世の人々は、人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす想いによって、この無常の世に生まれてくる。そうしては、この世⇔かの世と言う運動が生まれ、これを繰り返す。ひとたび人間的思考の運動(快⇔不快)を制したならば、生まれることもなく、老いることもなく、死ぬこともないのである。