スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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スッタニパータ解説

スッタニパータ パスーラ834の解説

834 さてあなたは(「自分こそ勝利を得るであろう」と)思いめぐらし、心中にもろもろの偏見を考えて、邪悪を掃(はら)い除いた人(ブッダ)と論争しようと、やって来られたが、あなたも実にそれだけならば、それを実現することは、とてもできない。

 

 

さてあなたは、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げ、(「自分こそ勝利を得るであろう」と)思いめぐらし、心中にもろもろの偏見を考えて、人間的思考の運動(快⇔不快)を止め邪悪を掃(はら)い除いた人(ブッダ)と論争しようと、やって来られたが、あなたも実にそれだけならば、それを実現することは、とてもできない。人間的思考の運動(快⇔不快)を止められない人々は真理を観る事はできないからである。

 

スッタニパータ パスーラ833の解説

833 またかれらは対立を離脱して行い、一つの見解を[他の]諸々の偏見と抗争させない人々なのであるが、かれらに対して、あなたは何を得ようとするのか?パスーラよ。かれらの間で「最上のもの」として固執されたものは、ここには存在しないのである。

 

 

 

また真の修行者は自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止め、対立を離脱して行い、一つの見解を[他の]諸々の偏見と抗争させない人々なのであるが、かれらに対して、あなたは何を得ようとするのか?パスーラよ。かれらの間で掴むような「最上のもの」として固執されたものは、ここには存在しないのである。かれらはそれらを手放して真理を観たのだから。

スッタニパータ パスーラ832の解説

832 (特殊な)偏見を固執して論争し、「これのみが真理である」と言う人々がいるならば、汝はかれらに言え、ー「論争が起っても、汝と対論する者はここにいない」と。

 

 

 

人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げて、偏見を固執して論争し、何かを掴み「これのみが真理である」と言う人々がいるならば、汝はかれらに言え、ー「論争が起っても、汝と対論する者はここにいない」と。真理をみるものは全てを手放して固執することはないからである。

スッタニパータ パスーラ831の解説

831 たとえば王に養われてきた勇士が、相手の勇士を求めて、喚声(かんせい)を挙げて進んでいくようなものである。勇士よ。かの(汝に、ふさわしい、真理に達した人の)いるところに到(いた)れ。相手として戦うべきものは、あらかじめ存在しないのである。

 

 

 

たとえば王に養われてきた勇士が、人間的思考の運動(勝⇔負)を立ち上げて、相手の勇士を求めて、喚声(かんせい)を挙げて進んでいくようなものである。勇士よ。かの(汝に、ふさわしい、真理に達した人の)いるところに到(いた)れ。相手として戦うべきもの(運動)は、あらかじめ存在しないのである。それらを止めて初めて真理をみるのであるから。

スッタニパータ パスーラ830の解説

830 心の高ぶりというものは、かれの害(そこな)われる場所である。しかるにかれは慢心・増上慢心(ぞうじょうまんしん)の言をなす。このことわりを見て、論争してはならない。諸々の達成せる人々は、「それによって清浄が達成される」とは説かないからである。

 

 

心の高ぶりというものは、かれの害(そこな)われる場所である。しかるにかれは人間的思考の運動(快⇔不快)が求めるものを得ては慢心・増上慢心(ぞうじょうまんしん)の言をなす。このことわりを見て、論争してはならない。諸々の達成せる人々は、「人間的思考の運動(快⇔不快)が動いた状態では清浄が達成される」とは説かないからである。それらを止めてこそ、あるがままの真理を観る事ができるからである。

スッタニパータ パスーラ829の解説

829 あるいはまた集会の中で議論を述べて、それについて称賛されると、心の中に期待したような利益を得て、かれはそのために喜んで、心が高ぶる。

 

 

あるいはまた集会の中で議論を述べて、それについて称賛されると、心の中に運動によって期待したような利益を得て、かれはそのために喜んで、心が高ぶる。このように運動によって心は動揺し、あるがままの真理をみる事はできないのである。

スッタニパータ パスーラ828の解説

828 これらの論争が諸々の修行者の間に起ると、これらの人々には得意と失意とがある。ひとはこれを見て論争をやめるべきである。称賛を得ること以外には他に、なんの役にも立たないからである。

 

 

 

これらの論争が諸々の修行者の間に起ると、これらの人々には人間的思考の運動(快⇔不快)がもたらす得意と失意とがある。ひとはこれを見て論争をやめるべきである。運動が立ち上がって称賛を得ること以外には他に、なんの役にも立たないからである。故に修行者は自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止めて、それらを手放して、真理を観たのである。

スッタニパータ パスーラ827の解説

827 諸々の審判者がかれの緒論に対し「汝の議論は敗北した。論破された」というと、論争に敗北した者は嘆き悲しみ、「かれはわたしを打ち負かした」といって悲泣(ひきゅう)する。

 

 

 

諸々の人間的思考の運動(快⇔不快)を立ち上げた審判者が、かれの緒論に対し「汝の議論は敗北した。論破された」というと、論争に敗北した者は嘆き悲しみ、「かれはわたしを打ち負かした」といって悲泣(ひきゅう)する。このように運動によってかれらの感情は動揺するのである。このように動揺すると、真理を見る事はできないのである。

 

 

スッタニパータ パスーラ826の解説

826 集会の中で論争に参加した者は、称賛されようと欲して、おずおずしている。そうして敗北してはうちしおれ、(論敵の)あらさがしをしているのに、(他人から)論難されると、怒る。

 

 

 

集会の中で論争に参加した者は、自らの人間的思考の運動(称賛⇔誹謗)を立ち上げては、称賛されようと欲して、おずおずしている。そうして敗北してはうちしおれ、論敵のあらさがしをしているのに、他人から論難されると、怒る。まさに、運動を止める(中道)と言う修行から遠く離れたところにかれらはいるのである。

スッタニパータ パスーラ825の解説

825 かれらは論議を欲し、集会に突入し、相互に他人を〈愚者である〉と烙印(らくいん)し、他人(師など)をかさに着て、論争を交(かわ)す。ーみずから真理に達した者であると称しながら、自分が称賛されるようにと望んで。

 

 

 

かれらは論議を欲し、集会に突入し、自らの人間的思考の運動(快⇔不快)を止められず、相互に他人を愚者であると烙印(らくいん)し、他人(師など)をかさに着て、論争を交(かわ)す。ーみずから真理に達した者であると称しながら、人間的思考の運動(称賛⇔誹謗)による自分が称賛されるようにと望んで。