スッタニパータ suttanipata

スッタニパータは、お釈迦様が実際にお話しされたことばです。

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ご法話

スッタニパータ マーガンディヤ837のご法話

836 (マーガンディヤいった)、「もしもあなたが、多くの王者が求めた女、このような宝、が欲しくないならば、あなたはどのような見解を、どのような戒律・道徳・生活法を、またどうような生存状態に生まれかわることを説くのですか?」

 

 

当時のインドでは、生まれ変わりが信じられておりどのようにすれば、よい環境、望んだ環境で生まれ変われるのかを切望して生きる人がほとんどであった。実際に人々の転生の様子を視ると実に運動によって上下し、つまり、良かったり悪かったりしているのであるが、その運動は、人間的思考の運動(好き⇔嫌い)によって運動しているのである。例え、どのような生存状態を得られたとしても、生を得たならば死ぬ苦しみがあるのであって、それらを望んではならない。より高みを望めば、より深みが訪れる。修行者はそれらの喜びには苦しみが伴う事をよく観察をして、この迷いの生存状態を離脱し、遂には彼の岸へと到達するのである。

スッタニパータ マーガンディヤ835のご法話

835 (師(ブッダ)は語った)、「われは(昔さとりを開こうとした時に)、愛執と嫌悪(けんお)と貪欲(とんよく)(という三人の魔女)を見ても、かれらと淫欲の交わりをしたいという欲望さえも起らなかった。糞尿に満ちたこの(女が)そもそも何ものなのだろう。わたくしはそれに足でさえも触(ふ)れたくないのだ。」

 

 

世の人々は、異性を見た時にあるいは、恋愛対象としての対象を見た時に、人間的思考の運動(好き⇔嫌い)が立ち上がりその運動のまま行動をする。そしてその対象を得られれば、喜び、得られなければ悲しむ。それらは修行をしない人間の行動である。修行者は、その対象を見た時に自らに起こる危険を察知する。あるいは、自らに立ち上がる感情を観察し、その対象に対しての、執着、その先に起こりうる愛執と嫌悪(けんお)と貪欲(とんよく)を見抜き、それらを制して、遂には安穏を観たのである。

スッタニパータ パスーラ834のご法話

834 さてあなたは(「自分こそ勝利を得るであろう」と)思いめぐらし、心中にもろもろの偏見を考えて、邪悪を掃(はら)い除いた人(ブッダ)と論争しようと、やって来られたが、あなたも実にそれだけならば、それを実現することは、とてもできない。

 

 

さてあなたは、人間的思考の運動(勝ち⇔負け)を動かしながら「自分こそ勝利を得るであろう」と思いめぐらし、心中にもろもろの偏見を考えて、人間的思考の運動(勝ち⇔負け)を掃(はら)い除いた人(ブッダ)と論争しようと、やって来られたが、あなたも実にそれだけならば、人間的思考の運動の範疇に引き入れようと実現することは、とてもできない。

 

 

スッタニパータ パスーラ833のご法話

833 またかれらは対立を離脱して行い、一つの見解を[他の]諸々の偏見と抗争させない人々なのであるが、かれらに対して、あなたは何を得ようとするのか?パスーラよ。かれらの間で「最上のもの」として固執されたものは、ここには存在しないのである。

 

 

また聖者は対立を離脱して行い、人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、一つの見解をあるがままに見る。他の諸々の偏見と抗争させない人々なのであるが、かれらに対して、あなたは何を得ようとするのか?パスーラよ。かれらの間で人間的思考の運動(快⇔不快)を動かして掴んだ「最上のもの」として固執されたものは、ここには存在しないのである。

 

スッタニパータ パスーラ832のご法話

832 (特殊な)偏見を固執して論争し、「これのみが真理である」と言う人々がいるならば、汝はかれらに言え、ー「論争が起っても、汝と対論する者はここにいない」と。

 

 

かれは特殊な偏見=人間的思考の運動(快⇔不快)の見方によるかれが見出した真理、それらを掴み、固執して論争し、「これのみが真理である」と言う人々がいるならば、汝はかれらに言え、ー「論争が起っても、汝と対論する者はここにいない」と。人間的思考の運動(快⇔不快)を止め、何ものをも掴むことなく手放し、こだわりを捨てたものこそ、真理を視る者だからである。

 

スッタニパータ パスーラ831のご法話

831 たとえば王に養われてきた勇士が、相手の勇士を求めて、喚声(かんせい)を挙げて進んでいくようなものである。勇士よ。かの(汝に、ふさわしい、真理に達した人の)いるところに到(いた)れ。相手として戦うべきものは、あらかじめ存在しないのである。

 

 

人間界のあるいは人間的思考の運動に基づいた分別それは、歓声を受け、あるいは王に褒められたものが優れていると見なされ、優れていると勇士は思い込んでいる。人間的思考の運動(快⇔不快)を制してあるがままに観る聖者は、全てを知るものである。かれに歓声あるいは誉め言葉が必要であろうか?それを求めるであろうか?かれはそれらの運動を解脱したところに存在しているのである。

スッタニパータ パスーラ830のご法話

830 心の高ぶりというものは、かれの害(そこな)われる場所である。しかるにかれは慢心・増上慢心(ぞうじょうまんしん)の言をなす。このことわりを見て、論争してはならない。諸々の達成せる人々は、「それによって清浄が達成される」とは説かないからである。

 

 

人間的思考の運動(快⇔不快)が起こると、それに伴い感情が反応する。その心の高ぶりというものは、かれの害(そこな)われる場所である。しかるにかれは感情が動き、慢心・増上慢心(ぞうじょうまんしん)の言をなす。このことわりを見て、論争してはならない。諸々の達成せる人々は、「慢心によって清浄が達成される」とは説かないからである。人間的思考の運動(快⇔不快)を止めたところにこそ修行者が求めている世界が広がるのである。

 

スッタニパータ パスーラ829のご法話

829 あるいはまた集会の中で議論を述べて、それについて称賛されると、心の中に期待したような利益を得て、かれはそのために喜んで、心が高ぶる。

 

 

人間的思考の運動(快⇔不快)の運動により称賛されると喜ぶ。この喜ぶ心は果たして利益であろうか?修行者は、この人間的思考の運動(快⇔不快)を制しない限り真理を視ることは出来ない。そういう意味では、喜びも悲観もたいして変わらないのである。それらを得たところで、苦しみを乗り越えることは出来ない。それらの運動を止めた中道を歩む者こそ苦に打ち克つ者なのである。

スッタニパータ パスーラ828のご法話

828 これらの論争が諸々の修行者の間に起ると、これらの人々には得意と失意とがある。ひとはこれを見て論争をやめるべきである。称賛を得ること以外には他に、なんの役にも立たないからである。

 

 

これらの論争が諸々の修行者の間に起ると、これらの人々は、人間的思考の運動(快⇔不快)による反応により感情が揺り動かされ得意と失意とがある。ひとはこれを見て論争をやめるべきである。称賛を得ること以外には他に、なんの役にも立たないからである。それらの反応を制することが出来たならば、心は安穏に帰してあるがままに物事を観る事ができるのである。

 

スッタニパータ パスーラ827のご法話

827 諸々の審判者がかれの緒論に対し「汝の議論は敗北した。論破された」というと、論争に敗北した者は嘆き悲しみ、「かれはわたしを打ち負かした」といって悲泣(ひきゅう)する。

 

 

諸々の審判者がかれの緒論に対し「汝の議論は敗北した。論破された」というと、論争に敗北した者は嘆き悲しみ、「かれはわたしを打ち負かした」といって悲泣(ひきゅう)するが、それらは人間的思考の運動(勝ち⇔負け)の範疇にあり、例え勝ったとしても、あるいは負けたとしても、修行とは全く関係ないのである。むしろ、勝ち負けに反応している事に問題がある。修行とは、自らの人間的思考の運動に打ち克ち、自らを制してこそ修行と呼べるからである。